大和但馬屋日記

はてなダイアリーからの移行中

動揺といふよりは困惑かなあ

涼宮ハルヒの動揺(谷川流,角川スニーカー文庫) - 大和但馬屋読書日記 - bookグループ

涼宮ハルヒの動揺 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの動揺 (角川スニーカー文庫)

六巻目。短編集。ん〜んん?
収録された五編が総じて隙間埋め以上の何かではなく、つまり一冊丸ごと隙間だつたといふことだ。ピンポイント的に受けた部分がない訣ではない。しかしそれも本巻においてはほぼ一箇所だけ、「ヒトメボレLOVER」のP.124からP.125、口絵にもなつてゐる部分だけだつた。
朝比奈ミクルの冒険 Episode00」と「猫はどこへ行った?」に至つては、語り手や作中人物によつてことあるごとにエクスキューズを出されまくる文章を読まされる苦痛といふものについて考へるべきだと思つた。前者は端的に読む時間の無駄だし、後者は虚構内虚構であることを打ち出すならレイヤーがもう一つ必要だらう。読み始めからバレバレの答へをそのまま出してどうする。「ハルヒ」はそれをやつてのける作品だと思ふのだが。
五巻目の後のこの巻ではキツかつた。順番が違へば少しは違つた感想になつたかもしれない。まあ、これらを伏線としてまた大仕掛けを見せてくれるなら文句はないが、かういふ期待の仕方は作品のためにも良くない気がする。そろそろ締めて欲しいかな。

「じゅうひめ」といふ読み方だけはどうしても違和感を拭ひ去れない

さうは思ひませんか。

銃姫(4)(高殿円,MF文庫J) - 大和但馬屋読書日記 - bookグループ

うわ、すげえな。前巻と上下巻といふ割にあまり話が繋がつてる感じはしないと思つたら、三巻で初登場した人物たちとのエピソードはきつちりこの巻でケリをつけてみせた。緩急のつけ方がすこし極端すぎる様に思ふけれども、読後感は悪くない。読んでる最中の描写は酸鼻を極めるが‥‥つか、ほんと容赦ないですね。
主人公に関る人物達の、その関り方が特にこの上下巻では良かつたと思ふので、この調子で続きを楽しみにしたい。

暴走分が足りない

涼宮ハルヒの暴走(谷川流,角川スニーカー文庫) - 大和但馬屋読書日記 - bookグループ

涼宮ハルヒの暴走 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの暴走 (角川スニーカー文庫)

(以下略)の五冊目となる短編集。正確には「ザ・スニーカー」連載の短編二つに書下ろし中編がひとつ。
短編はそれぞれ「SOS団のやつら・ビューティフルドリーマー」と「長門のゲーム」だな。中編は「かまいたちの夜」の分岐シナリオの一つかしらん。まあ、それぞれよくあるネタをハルヒでやつてみた、といふ感じ。短編は面白く読めたものの中編は長さの割に上滑りした感じだつた。これがもし一冊分の分量だつたら「溜息」の時みたく怒つたかもしれん(怒つたのか)。
つか、文庫タイトルに偽りありではないか。

世界の真中くらゐの凡庸さと大転回する世界

世界最大のこびと2(羽田奈緒子,MF文庫J) - 大和但馬屋読書日記 - bookグループ

やはり一度終つた話の続編といふのは難しいものだ。一作目がよかつただけに、余計にそれを感じる。
登場人物が多すぎて最後まで使ひきれてないといふか、それは単にアテナの扱ひが不満なだけかオレは。いやアテナ(とかザイスとか)はともかく、パウエルすら使へてないのはどうかと。あと、クライマックス付近での一弥の行動が色々と謎過ぎる。そもそも筋立てが強引なのではないか。
ライトノベルならこの程度の強引さは普通、或いは許容範囲内なのかもしれないが、それを許容させるほどにはキャラが立つてないといふか、先述のやうに扱ひきれてないので、全体的に掴みどころがない。もう少し登場人物が整理されてゐればよかつたと思ふ。いつそ、ガルバの役回りをアテナにさせるとかの方がよかつたのではないか。アテナとパウエルの絡みで引張れば一弥の行動にも強い動機が生じたはずだ。一人のキャラクターにひとつの特徴しか与へられてゐないから、結果的に使ひ棄てになつてゐるのが勿体無い。一作目の事件に関つたキャラたちの物分りが良すぎて、二作目の牽引役になり得てないのだともいへさう。
あと、熊井さんが一度も挿絵に描かれてゐないのはあんまりだと思つた。悪いキャラではないのに。

涼宮ハルヒの消失(谷川流,角川スニーカー文庫) - 大和但馬屋読書日記 - bookグループ

涼宮ハルヒの消失 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの消失 (角川スニーカー文庫)

id:adramineさんに是非にと勧められたので、打止め予定を先延しにして読んだ。
涼宮ハルヒが以下略四巻目、つか今回の主人公は違ふな。いやもともとさうなのか。ともかく‥‥
うお! 面白い!
全く文句なし。話の進め方から途中の回し方幕の引き方余韻の残し方まで申し分ない。いやー、危なく読み逃すところだつた、あどさん有難う。ここまできたら、残りも読むしかないな。この巻を読むためだけでも一巻から三巻まで読んだ価値はあるといふもの。ならば残りも付合はうではないか。
最初の「〜憂鬱」をオレに押付けてくれた友人K氏にも感謝したい。
あ、いつこだけ。表紙のキャラ、誰よと思つた。一巻の挿絵とイメージが違ひすぎないか。さうでもないか、といふかどうでもいいか。

面白かつたけど打ち止めにしよう

涼宮ハルヒの退屈(谷川流,角川スニーカー文庫) - 大和但馬屋読書日記 - bookグループ

涼宮ハルヒの退屈 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの退屈 (角川スニーカー文庫)

シリーズ三冊目。一人セカイ系涼宮ハルヒが以下略短編集
ここまでで一番面白かつた。全部が全部といふわけではないが、収録された四編のうち、最初の「涼宮ハルヒの退屈」と最後の「孤島症候群」は文句なし。どうやらオレは野球ギャグがツボに填まり易いらしい。二本目の「笹の葉ラプソディ」もそれなり。三本目は地味だが、さつと読み流せば済むことだ。
もちろん短編集が面白いといつても、それはあくまで前二冊、といふか一作目で基本設定が読者の頭に入つてゐるから言へることで、後の話は作者自身の手で書かれた二次創作といつてもよい。二作目が物足りないと思つたのは本一冊分もかけて二次創作をやられてもな、といふことだつたのだらう、たぶん。
物語の一番おいしいところは当り前だがやはり一作目で使ひ切られてゐると思ふので、これ以上シリーズの続きを読むよりは他の本を(同じ作者のでもいいから)読んだ方がいいかな。

今日も二冊

職業欄はエスパー(森達也,角川文庫) - 大和但馬屋読書日記 - bookグループ

職業欄はエスパー (角川文庫)

職業欄はエスパー (角川文庫)

超能力者として一度はメディアで話題を集めたことのある三人を追ふドキュメント。
途中でも書いたことだが、超能力者たちの生き方よりも彼らへの接し方に戸惑ふ著者の様子が面白かつた。それが世間を代表する態度であるとはいへないにしても、社会における超能力者の受容れられかた(あるいは拒絶のされかた)の有り様を示してゐる。
著者は何度も「(超能力を)信じるか信じないか」といふ選択を自らに突きつける。このテーマを追ふ限り、どこの誰に会つて話しても最後はその二択に行き着いてしまふといふ。本当は、その二択が究極の選択ではないはずであることくらゐ、著者も分つてゐるだらう。しかし、最後にはそこに行き着いてしまふ。そのどちらかを選ばせることで、誰かが誰かを篩にかけようとしてゐるかのやうに。まこと厄介な話だと思ふが、世の中とはそんなものだらう。
関係ないけど、田原町の仏具店とか北千住の幽霊スポットとして名高いアメージングスクエア(大和但馬屋カートオフの会場であるシティカートの所在地)とか、妙に馴染みのある場所が出てきて可笑しかつた。さうか、オレは清田氏と自転車で擦れ違つてゐる可能性が高かつたのか。

涼宮ハルヒの溜息(谷川流,角川スニーカー文庫) - 大和但馬屋読書日記 - bookグループ

涼宮ハルヒの溜息 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの溜息 (角川スニーカー文庫)

シリーズ二作目。一人セカイ系涼宮ハルヒが映画を撮らうと大迷惑。要約完了?
うーん、一作目で基本設定を与へられた後に「映画を撮る」といふテーマを持つてきたのなら、もつと色々やつてほしかつたと思ふのは贅沢なのか。まあ、それは下手したら「アベノ橋魔法商店街」にしかならないかもしれないけれど(どちらが先とかではなくて)。長編のわりに小さくまとまつた感があつて物足りない。なんといふか、「世界の在り方を左右できる存在でありながらそのことに無自覚で、世界の変容を望みつつも常識が邪魔をしてゐる」といふハルヒの基本設定こそが話を煮え切らなくさせてる原因なのではないかと。でも、話の落し方はよかつた。
気が向いたら続きを以下略。

またラノベ二冊

そろそろペースダウンしよう。

涼宮ハルヒの憂鬱(谷川流,角川スニーカー文庫) - 大和但馬屋読書日記 - bookグループ

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

友人からの貰ひ物。どうやら絵描きで買つたものと思はれ。オレはよく知らんかつたけど。それはさておき。
なるほど、世間で面白い面白い言はれるのが良く分つた。好きか嫌ひかでいへば七割くらゐ好き。もう少し派手に足場を崩してくれたら言ふことはなかつたが。掛けた梯子を外した後に、それをどうするかといふ期待の部分でやや拍子抜け。そこが残りの二割。あとの一割は、うーん、ハルヒのキャラかしらん。あと、最後まで「そもそも何故こんなことに」といふ疑問が残る点があるけれども、敢てそれを書かないことで味はひが出たのかもしれず、それは良いことにしておきたい。
続刊も沢山出てゐるが、まあ気が向いたら手を出していかう。

神様家族(桑島由一,MF文庫J) - 大和但馬屋読書日記 - bookグループ

神様家族 (MF文庫J)

神様家族 (MF文庫J)

なんか、「ハルヒ」と似たような理由で六割くらゐ好き。梯子が外れた瞬間は読んでてゾクゾクした、そこは「ハルヒ」より良かつた点。つい比べてしまふのは続けて読んだからで、それ以上の意味はない。
これも続刊が多いなあ。一巻で上げて落してやつてるから、後にどう続くんだといふ感がどうしても拭へない。ライトノベルの二巻目以降つて、一巻目の出来が良いほど手を出すのに躊躇してしまふことがある。話が如何にも「先に続く」といふものでなければ、といふか「なんとか文庫大賞受賞作」といふものであれば必然的にさうなつてしまふのだけど。

そろそろラノベ中りしてきたかな

あまりライトノベルばかり読んでると何となく精神的によろしくない影響が出てくる。一冊ごとに知的好奇心とは別のカタルシスが適度にやつてくるので、なにか中てられた様な感じになるのだ。アニメの観すぎとかでも同様になるから、どちらもほどほどにしたい。
あ、ゲームは別腹ですよ。

ホーンテッド!3(平坂読,MF文庫J) - 大和但馬屋読書日記 - bookグループ

読み始めた直後に「なにこれー」とか言つて悪かつたと、最後まで読んでから思つた。二つの章に分れてゐるが、後半の話は「じゃじゃ馬グルーミンUP」みたいな、つかそのまんまだけど、そのまんまなりに読めた。後半がああでなければ続編が出ても読まないつもりだつたが、ギリギリのところで引き止められた感がある。
前半でやりたいことはまあ分るんだけど、この手の文章芸はやつたもん勝ちであり、すでに筒井康隆などが大抵のことはやり尽してゐるので今更、といつた感想しか出てこない。上下段に割つたところも御苦労様としか言ひ様がないし、一番目につく文章芸がただのフォント弄りといふのでは感じが悪くなるだけだつた。それら文章芸に引き摺られて主人公のキャラが、ひいては地の文の語り口までが変つてしまつてるし。つか、主人公が女装してる時点でアレですよ(何
描写のことを措くとしても、後半で重要な役割を果たすキャラ達との出会ひを描くならばもう少しマシな出会ひ方をさせてほしかつたと思ふ。まあ、そのギャップこそが作者の狙ひだつたのだらう。

世界最大のこびと(羽田奈緒子,MF文庫J) - 大和但馬屋読書日記 - bookグループ

埋読発掘。読み終へて後悔した。なぜ、買つてすぐに読まなかつたのかと。勿体ないことをした。
最初はジュブナイルかと思つたが、やはりこれはライトノベルだ。その違ひを具体的に述べよと言はれると困るけれど。質の良し悪しではなくて、物語の肌触りといふか、なんかそんな辺りが。何言つてんだオレ。
ときどき文意の掴みにくい記述に出くはすことがあるが、読みにくいといふことはない。全体に綺麗に閉じた話だけに、既に出てゐる続編が楽しみなやうな心配のやうな。まあつべこべ言はずに読んでみよう。
イラストの戸部淑氏は「ぷよぷよ〜ん」でその絵を知つて、後にサイトを常にチェックする様にもなつたけれど、やはり良いですな。どのキャラもよく描けてゐる。

GWライトノベル一気読み

普段の行動半径内ではMF文庫Jの最新刊以外の在庫がほとんどなくて、オレは最近MF文庫Jの作品ばかり偏つて読んでゐるものだから、買へる時にまとめ買ひする癖がついてしまつた。

あそびにいくヨ!シリーズ(神野オキナ,MF文庫J) - 大和但馬屋読書日記 - bookグループ

二巻までは少し前に読み終へてゐたので、残り四巻をまとめ読み。大雑把に奇数巻を学園コメディ編、偶数巻を大ネタ編と分けた場合、面白いのはやはり奇数巻の方かな。作品の持つ傾向として、全てをぶつ壊すバッドエンドには向はないだらうと予め想像がついてしまふ今の状態では、どれだけ話の振り幅を大きくされても結局最後はゼロに収斂してしまふことが分りきつてゐる。そのために、ネタの大きさ自体が空振り気味になつてゐる。両端を固定した縄跳びをうねらせてゐるやうなもので、ラストに至るも驚きが足りない。
ゼロに収斂するのが悪いわけではなくて、ならばそれに見合つた規模の馬鹿ネタを読んでゐる方が心地良いといふこと。大ネタをやるならそれなりに何かを壊すか、徹底的に馬鹿馬鹿しさを追求するかしてほしい。とりあへずアシストロイドの動きを読んでるだけで和むから好きな作品だけど、先が少し心配。
あと、だんだんキャラが把握できなくなつてきた、といふかあからさまに「この人誰?」と思ふキャラが増えてきた。Amazonのレビューなどをみるに、作者の他の作品のキャラらしい。なんといふか、説明なしにかういふのは困るなあ。置いてけぼりな気分ですよ。

ホーンテッド!シリーズ(平坂読,MF文庫J) - 大和但馬屋読書日記 - bookグループ

間違へて先に二巻を読んでから一巻を読むといふ変則パターン。しかし登場キャラが主人公を除きほとんど被つてゐないのであまり問題はなかつた。ただ、二巻では自明のこととして語られてゐることが一巻ではちやぶ台返し的なネタに使はれてゐて、それだけは仕方なかつた(でも、一巻のオチだけでは読者もただのネタとしてスルーするかも、とも思つた)。
たぶん、一巻から読んでゐたら二巻は読まなかつたと思ふ。つまらないからではなくて、主人公(の語り口)にムカムカするだけだつたらうからだ。そのムカムカを留保する材料が予め自明のこととされた二巻から読み始めて、作者にとつては不本意だらうが個人的には正解。すでに三巻も入手済み。

アルティメットガール―桜花春風巨大乙女!(威成一,電撃文庫) - 大和但馬屋読書日記 - bookグループ

ついカッとなつて買つた。今は反省してゐない、つか悪くなかつた。ちなみにアニメの方は未見だつた。

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簡単に分れば苦労もすまいが

歴史学ってなんだ? (小田中直樹,PHP新書) - 大和但馬屋読書日記 - bookグループ

歴史学ってなんだ? (PHP新書)

歴史学ってなんだ? (PHP新書)

その名の通りの内容。歴史学の定義、歴史学と社会との関り方や位置付けなどを著者なりの視点で述べる。
面白かつた。読み易く分り易い語り口で、話題そのものは一見あちこちに寄り道もするが、ところどころに鋭い指摘が含まれてゐる。歴史学に留まらず、「物の考へ方」の変遷の概略を知るのにも良い。
歴史学は社会の役に立つか」あるいは「社会の役に立たねばならないか」といふ問掛けは、歴史学だけでなくあらゆる学問、あらゆる文物に共通する。これに対する著者の答は以下のやうなものだ。

直接に社会の役に立とうとするのではなく、真実性を経由した上で社会の役に立とうとすること。集団的なアイデンティティや記憶に介入しようとするのではなく、個人の日常生活に役立つ知識を提供しようとすること。このような仕事に取り組むとき、歴史学は社会の役に立つはずだ

これには「役に立とうとするほうがよいに決まっているが、そうしなければならないとまではいえない」という、ちょっと中途半端なものになりますといふ前置きが付く。全く、歴史学だけの問題ではない。何につけても、近視眼的な即効性にばかり重い価値を求めると、物事を歪ませてしまふものだ。

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気前が良くて二枚目で〜(全然違ふ)

「大岡裁き」の法意識 西洋法と日本人(青木人志,光文社新書) - 大和但馬屋読書日記 - bookグループ

「大岡裁き」の法意識 西洋法と日本人 (光文社新書)

「大岡裁き」の法意識 西洋法と日本人 (光文社新書)

明治以降、西洋の近代法が日本人にどう受容されてきたかを振り返る。
タイトルにある「大岡裁き」はこの本の中では全く重要でなく、タイトルに惹かれて本書を手にしたオレには肩透しの感が否めない。
ただ、西洋(といふかヨーロッパ)で培はれた近代法、と一括りにはできないほど個々に成立の事情も性格も全く異るフランス法、イギリス法、ドイツ(プロイセン)法などを、明治日本の法学者達がどの様に学び、取り入れ、また棄てていつたかを概観できたのは収穫だつた。
大岡裁き」を例に、日本の裁判と欧米のそれとの違ひを浮彫りにする第四章がこの本の主題だと思ひたいのだが、ここは少々煮え切らない。各説を取上げて紹介しながらも、著者の態度はそれぞれの「ええとこどり」をすれば良いではないかといふ印象で、実際的ではあるがサプライズには欠ける(そんなものを求めるオレが悪いだけだ)。
印象に残つた点をいくつか箇条書き。

  • 欧州諸国語の「権利」(英語でright)といふ言葉には「正」「直」「法」といつた意味が内在してゐるのに、「権利」といふ訳語からはそれらの意味が削ぎ落とされてゐる。これが日本人の権利意識に影響を与へてゐるといふ一説(P.115〜)
    • 「権利」といふ言葉がなかつたからといつて、例へば明治以前に日本人に権利意識がなかつた訣ではないといふ反論(P.119〜)※個人的には、この反論は問題をすり替へてゐると思ふ
  • 日本に近代法をもたらした御雇外国人ボアソナード博士の建議により明治前期に拷問が廃止されたが、ボアソナードの眼前で拷問を行つてゐた司法官は明治後期になつても彼のことを「法律家に似合ぬ慈悲深い男」と揶揄してゐたこと(P.128〜)
  • 昨今流行の「自己責任」といふ言葉について、他者にそれを求めるのは自分の責任回避の発露でしかなく、「自己責任」の本来の意味からは逆行してゐるといふ著者の指摘(P.197〜)

あと、どうにも引掛る記述を引用する。

不継受と廃棄の法制史

読者にはふたたび第一章の穂積陳重の姿の変遷を思い起こしていただきたい。マゲから一気に蝶ネクタイへ。このような柔軟さは、日本の法受容史を貫く顕著な特質のひとつだろう。
明治維新以来、たかだか三〇年のうちに、幕府法・藩法が棄てられ、律令が棄てられ、せっかく新しく学んだイギリス法も棄てられ、同じくフランス法もかなりの部分が棄てられ、ついには頭の古い司法官そのものが棄てられた。
そして、このあと第二次世界大戦後にも、またたくさんのものが棄てられることになる。わたしたちの先達は、その時々の状況に合った西洋法(学)を貪欲に摂取する一方で、実に潔く多くのものを棄てつづけてきたのである。
(略)
明治人たち、少なくとも国の中枢にあって西洋的近代化を推進した人たちは、おそろしく柔軟性があり、すさまじく進取の気象(ママ) に富んでいたというべきである。

今もかうしたことが日本人の美点として語られるのである。
明治から昭和二十年代にかけての日本人が、生き延びるためにさうせざるを得なかつたといふのは歴史的な事実だ。しかしそれは、さうせざるを得なかつただけのことであつて、それ以上でも以下でもない。少なくとも、諸手を挙げて称揚すべきことだとは思はれない。「要らなくなつたら棄ててまた新しいものを取入れればよい」といふのは一個人の世渡り手法としては有効であつても、では取入れられるものがなくなつた場合にどうしたものかといふ問ひには答へられないだらう。今あるものが実情に合はなくなり、手本にすべきものも無くなつた時に、「旧いから」といふ理由だけで棄てられたものの中から新たな価値を見出せるだらうか。オレはさうすべきだと思ふが、今のところそんな考へは到底世の中には受容れられまい。つまるところ、何でもかんでも棄てられると思つたら大間違ひだぞ、と。
あと、終章はまるまる駄文。どうもこの著者は空疎な譬へで言葉を飾りすぎる嫌ひがある。古い鏡は今や新しい光を宿し盛んに輝いているからであるとか、読んでるこちらが恥かしい。

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成功の重みはたつた1kg×2

キューブサット物語~超小型手作り衛星、宇宙へ(川島レイ,エクスナレッジ) - 大和但馬屋読書日記 - bookグループ

キューブサット物語~超小型手作り衛星、宇宙へ

キューブサット物語~超小型手作り衛星、宇宙へ

大学生による、十センチメートル立方の超小型人工衛星打ち上げ成功の記録。
もちろん、この本の結末がどういふことになつてゐるかは既に知つてゐる。隠された事実でも何でもなく、現に二つのキューブサットが今も軌道上を回つてゐるわけで、さういふ意味では安心して読めるはず。しかしまあ、その結末に至るまでに起きたことどものなんとドラマチックであることよ。ある局面では、ほとんど詐欺紛ひの目にさへ遭つてゐるではないか。よくもまあ打上げまで漕ぎ着けられたものだ。
仮に、「プロジェクトは必ず成功させなくてはならない」といふスローガンめいたものを大前提として掲げてみる。「なぜ成功させなくてはならないか」といふ理由など必要ない。この前提の前には、現れてくるすべての「理由」は「なぜ成功しないか」を説明するものでしかなく、そのことごとくを退けたものだけが成功を味はふことができるのだと、さういふ風に読んだ。
これは別に「成功することだけを信じていればよい」といふ精神論ではない。「成功しない理由」を退けられるのは具体的な目標であつたり、複数の回避策を講じておくことだつたり、人間関係を築いておくことだつたり、一度失敗しておくことだつたり、あるいは運だつたりもする。ただ、当事者が「成功しない理由」を退けられると信じてゐないことにはどうしようもないわけで、信じる信じないといふより「さういふ感覚を持てるかどうか」なんだらうな。
「プロジェクトは必ず成功させなくてはならない」といふ大前提に沿へば、自分が身を引かなくてはならない場合(学生だつたら卒業もするし、何が起るか分つたものではない)でもプロジェクトが止まることは有得ない。当り前のことばかりだが、日頃プロジェクトが前に進まない理由にまみれて生きてゐる身にしてみれば、読み進めながらいろいろとつまされるものがあつた。
それにしても、本当に小さいよキューブサットは。何となく名前からの連想でニンテンドーゲームキューブくらゐの大きさを想像してしまふのだけど、実際は‥‥

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知つたか事件

なんて駄洒落たタイトルを付けてはみたが、もう憤懣遣る方なくて仕事も手につかん。

三鷹事件 1949年夏に何が起きたのか(片島紀男,新風舎文庫) - 大和但馬屋読書日記 - bookグループ

三鷹事件―1949年夏に何が起きたのか (新風舎文庫)

三鷹事件―1949年夏に何が起きたのか (新風舎文庫)

「日本を震撼させた事件シリーズ」の一冊。昭和四十年代生れのオレにとつて、三鷹事件は「三鷹事件といふ大事件がその昔にあつた」といふ以上の知識はない。たまたま書店でこの凡そ千ページ近くもある分厚い文庫本を目にして、これ一冊ですべてが分るなら読んでみようと思つた。森達也の解説もついてることだし、とか。切掛けなどそんなものだ。
そして今最後まで読み通して、読後感のやり場のなさに困り果ててゐる。それはただ単に、単独犯と認定されて死刑判決を受け、無罪を主張しながら獄死した竹内被告への感情移入からくるものではない。事件そのものの異様さ、関係者と目された者に対する恣意的な逮捕・拘禁・取調べの数々、そして裁判進行の異常さについては本書を読めば分ることなので、改めてここで繰返すこともない。
国鉄が、労組が、検察と警察が、裁判所が、拘置所が、医師が、官僚が、弁護士が、共産党が、占領軍が、そしてマスコミの形作る世論が、ある一人の被告人の足元にせつせと穴を掘つてゐる。ことに異様なのは、その穴を率先して掘つてゐるのは被告人の担当弁護士ときてゐる。ネットで調べてみたところ、この担当弁護士の一人は数々の大事件を手掛けた名弁護士ださうだが、この本を著者に寄添つた視線で読む限りはただのペテン師としか考へられないのだ。この感覚が正しいのかどうかは、もつと色々な本を読まなくては分らないだらうが、とにかく今はそんな風に感じてゐる。
そして、国鉄と、労組と、検察と警察と、裁判所と、拘置所と、医師と、官僚と、弁護士と、共産党と、占領軍と、そしてマスコミの形作る世論のすべてに呪詛を吐きたくて仕方がない。どうしようもないからここに「馬鹿野郎」とだけ書いておく。我ながら本当に中二病くさい。
当時の社会と今の社会が、地続きの同じ社会であることと、自分がその中の一人であることを忘れないでゐようと思ふ。


以下関係ありさうななささうなことを雑感的に。つかただの自分語り。
この本を読みながら、もしこの事件の状況下に現在の様なインターネット環境があつたらどんなことになつてゐたかと何度も考へた。2chのやうな匿名掲示板や有象無象のブログだのなんだのがてんでに勝手な憶測を繰り広げ、晒さなくてもよい個人情報を徒に晒し、豚の餌にもならない署名運動なんぞがあちこちで興り、皆が何かの御為ごかしを言つたつもりになつて、しかし全体としては事件解決に何の寄与もすることなく事件の話題そのものを無責任に腐らせていくのだらう。
今ネット上にあるすべての所謂「時事ネタ」について同じことが言へる。いくら冷静な判断を装つたところで、同時的な渦中に呑まれてゐては自分の意見などあつて無きに等しい。何かについてコメントをしたとして、では五年後に見返した時に自分はそれをどう思ふだらうか。どうにか思つたとして、過去の自分の発言に対して何らかのフォローができるだらうか。ものを言ふときに、さうしたことまで考へるべきなのか否か。オレ自身、「どうあるべきだ」といふ答へを今は持つてゐない、「大人」ではないからさう簡単には気持ちを割切れない。ならばせめて、割切れてないことを書留めておかう。
なんかもう書いては消し書いては消しするばかりで文章を纏められない。

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今日も一冊

三鷹事件の本を読んでゐる最中の今、書店で目に止まつたので副読本として買つてみたら一気に読み終へてしまつた。タイトルから受ける印象ほど軽い内容ではないが、理屈がシンプルなので理解しやすい。論理的正しさを重んじる人(笑)には特にお奨め。

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司法のしゃべりすぎ (新潮新書)

司法のしゃべりすぎ (新潮新書)

全ての裁判において、判決文には判決理由を書くことが義務付けられてゐる。現役判事である著者はこの判決理由を「実定法に基づき主文(判決文)を導く法理論的過程」であると定義づけ、判決理由文のうちこの定義に沿ふ部分を「要部」、定義から外れた部分を「蛇足」と判定し、世の判決文の理由欄が如何に蛇足に満ちてゐるかを告発する。
著者が掲げる架空の例を要約すると、こんな話だ。
V氏殺人事件の犯人として起訴されたY氏は、証拠不十分で不起訴処分を受け、釈放されて社会復帰した。その後二十年が経ち、被害者V氏の子X氏がY氏に対し、親を殺したとして損害賠償請求の訴へを起した。Y氏は殺人の事実の否認と、損害賠償の除斥期間の経過を主張した。裁判所は時効の過ぎた殺人事件の有無について三年間も審理を行ひ、最後にある判決を下した。判決文の主文には「損害賠償請求を棄却する」とあり、X氏の全面敗訴となつたが、Y氏はその判決書類を見て仰天した。その理由欄には、「Y氏は二十年前に殺人を犯したが、損害賠償請求の除斥期間が経過してゐるのでこれを棄却する」と書いてあつた。Y氏はこの判決理由を不服として裁判所に控訴を届け出たが、「裁判に全面勝利してゐるのだから、控訴によるY氏の利益が存在しない」としてこれは却下され、Y氏は過去に殺人を犯したといふ濡れ衣を一生背負ふ羽目になり、X氏はY氏が犯人だと認定されたことに満足した。
著者は、この「Y氏は過去に殺人を犯したかどうか」について述べた部分を全て蛇足だと断じる。なぜなら、損害賠償の除斥期間の経過はX氏の訴へが起された時点で明らかな事実なのだから、第一回目の口頭弁論の時にでもこれを理由に請求を棄却できたはずなのだ。なのにその後三年間に渡つて全く不必要な審理が続けられ、はじめから結果の分りきつた判決文の理由を説く欄に被告の名誉を著しく損ふ内容が書かれることになつてしまつた。そして、被告にはこの汚名を雪ぐチャンスは二度と与へられないのだ。
絶対に取り違へてはならない点がある。著者は「Y氏がやつてもゐない殺人をやつたことにされたから」この判決理由が駄目だと言つてゐるのではない。「Y氏が殺人を実際に犯してゐようが犯してゐまいが、それは全く判決には関係がない」と言つてゐる。原告X氏は「いやそれこそが大切な、明らかにしたいことなのだ」といふだらうが、法に照らす限りそんなことは全くない。起訴事実が「損害賠償請求」である限り損害賠償の支払の妥当性だけが争点であり、架空の本件の場合はそもそも損害賠償の条件から外れてゐるのだから、損害の有無すら判定する必要はない、むしろ判定してはならないのである。
こんなのは所詮作り話だと思へど、実はさうでもないらしい。むしろ世の中の判決文の多くにかうした蛇足がみられ、裁判所はしなくても良い審理をし、司法の分を超えた憲法判断をしてマスコミを煽り、国会に新たな立法を仄めかしたりもする。これは重大な違法行為であるが、今まで誰もそれを問題にしてこないばかりか、歓迎されてきた節もあると著者は憤る。蛇足とはすなはち判決理由の要件を満たさない文であり、それが理由欄に書かれる悪しき慣例について今まで誰も疑問に思はなかつたのかと。
本全体が一貫した理論で貫かれてをり、読んでゐて大変小気味がよい。自分を「大人」だと自認するどこかの誰かがこれを読んだら「世の中そんな簡単なもんぢやないよ」と鼻で笑ひさうなものだが、世の中を訣の分らぬものにしてゐるのはつまりさういふ輩なのだ。おつと、これは蛇足かな。

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読書グループ日記始めました

参加申請をするだけしておいてその後放置したままのbookグループの日記を漸く始めました。id:rushtetsu:20050125#p4のご指摘はご尤もではありますが、そのあたりの解決法も同時に探りながらしばらくは続けてみるつもりです。
言及した本の情報はこちらにも記すことにします。今回のはこれ。

世界最速のF1タイヤ ブリヂストン・エンジニアの闘い(浜島裕英,新潮新書) - 大和但馬屋読書日記 - bookグループ

世界最速のF1タイヤ―ブリヂストン・エンジニアの闘い (新潮新書)

世界最速のF1タイヤ―ブリヂストン・エンジニアの闘い (新潮新書)

ブリヂストンF1部隊の指揮官であり、現時点でミハエル・シューマッハーの最も厚い信頼を受ける日本人、「ハミー」こと浜島氏の自伝的エッセイ。
現役レースエンジニアが書いた本なので、具体的な記述は注意深く取り除かれて、漠然とした話に終始する。まるでどこかのF1雑誌に連載されたコラムを取り纏めた様な内容で、内容としては相当に軽い。故に、F1入門書としては悪くない気もする。
個人的には、近年のブリヂストンが事実上フェラーリとしか組まないことにもどかしさと苛立ちを感じざるを得ないが、この本を読むとそのことについてブリヂストンにも多少の言分があることは理解した。
今シーズンの開幕以来ブリヂストンがライバル勢に対し惨敗中の今こそが、この本を読むためのある意味ベストなタイミングなのかもしれない。

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