大和但馬屋日記

はてなダイアリーからの移行中

「アレしてゐる私とコレしてゐる私は別なので」

さういふ風に出来れば便利だとは思ふことは時々ある。しかしそれは他者にとつてはどうでもいいことだ。101系と103系の違ひよりもどうでもいいことだ。団子虫と草鞋虫の違ひよりはましといふ程度のことだ。他者は他者で「アレしてゐるあいつ」と「コレしてゐるあいつ」をトータルな人格として見たがつたり行為ごとに分けて見ようとしたりしてゐる。下手したら全然関係ない誰かと一緒くたにされたりもするくらゐだし、別の誰かと自分を無意識のうちに同じとする「私」だつて居る。「見られたい自分」は自分で演出するしかないのだらうけど、それとて「外」に対しては所詮蟷螂の斧だ。
自分と自分の出力したものを相対化したいといふ欲望はどこから来るのだらう。
「私」は、「私の文脈」からどこまで自由になれるだらうか。仮令それが支離滅裂でも、文脈は文脈なのではないか。「私」を文脈から解放し、他者の文脈にも取込まれまいと欲するならば、書くのをやめるかSixamoにでも任せるしかないのかもしれない。しかし、Sixamoは結局「私」の文脈のサブセットでしか語らない。
「私」は「私」だ。押しも押されもせぬ、でも押されたらクニャッと曲がつたりポキッと折れたりグシャッと潰れたりすることもある「私」だ。なんかしらんがさういふことにしておきたいのがワシだ。
なんだこれ。

  • 2006年02月24日 jisou_kyuuhou 『でも空をかけるあいつと海を守るあいつと大地をはしるあいつは別人だと思う。どんな敵も倒せる仲間だし、一人よりも二人がいいし、二人よりも三人がいい。』