大和但馬屋日記

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政治的に正しいかどうかも本当にどうでもよくて

ゲームを好きな人が「脳トレ」をどうみてゐるかについては、まあ仰る通りといふか、そこは自明のこととしてはじめから問題視してゐない。[id:yms-zun:20070202#kawashimano]で引用した自分の過去発言にもある通りである。
ワシが気にしてゐるのは「論理の一貫性」についてのみ。前の記事ではそれがうまく伝はる様に書けなかつたのだらう。
たしかに「ゲーム脳」と「脳トレ」は直接比較する対象ではないのかもしれない。しかし、ゲーム好きが「脳トレ」を単なるゲームとしてしか見てゐないとしても、「脳トレ」を社会現象たらしめたのはさういふ見方をしない層、TAKESAN氏の言葉を借りれば元々、余り、ゲームに関心が無い人だと推察できる。では、「ゲーム脳理論」に感化され得る人は? 「あるある大辞典」で納豆に飛び付いて「騙された」と怒る人たちは? かなりの部分で重なつてゐるのではないかとワシは思ふし、それぞれの重なりの大きさやその事の良否の評価は別として、だとしたら同じ目で「脳トレ」ブームを見直す必要はないのか、と言つてゐる。ただそれだけのこと。「脳トレ」やる人は自分が「ゲームで遊んでゐる」とは思つてゐない可能性があるし、実際ソフトの中でもそれ自身が「ゲームである」と悟らせるやうな表現は注意深く排除されてゐる様にワシには思へた。そこから推察できるのはゲーム脳を信用しかける人が、脳トレの登場によって、ゲームを「見直す」のではなく、「脳トレ」は「脳トレ」であつてゲームとは違ふと認識されてゐるのではないかといふこと。まあ巧くやつたものだと感心する。
しかし、やり方として、一見科学的な裏付けがある様に見せかけてゐるといふ点で「ゲーム脳」も「脳トレ」も「あるある」も「水からの伝言」も同じである、といふのは理屈として間違つてゐるだらうか。ワシにとつて重要なのはその一点。菊地誠氏が「まん延するニセ科学」を通じて訴へようとしてゐるのは「『科学』に必要以上の期待をかけてなんでもかんでも押付けるな」といふメッセージだと読み取つた。ワシもそれを支持する。であれば、研究途上の仮説にすぎないものをゲーム仕立てにして「さも効果がある様に見せかける」のはどうなのか。ゲーム業界の活性化のためならば無視して済ませてよいことなのか。単にバブルに浮かれてゐるのとどう違ふのか。
仮に、もしも仮に「ゲーム脳理論」が科学的に正しいと立証され、かつ「脳トレ」がトンデモ科学と認定されたとしたら、その時ゲームに関る人たちは「私達は社会にとつて害悪でした、綺麗さつぱり廃業します」と白旗を上げるのか? そんな訣ないよね。科学とか関係ないんだよね、本当は。
つまるところ、良きにつけ悪しきにつけ、「科学つぽいもの」の威光を背負つたものをワシは警戒しますよ、さういふものに対してこそ「科学的な思考法」を援用しますよ、といふ話。商業的教育的あるいは政治的な目的の背後に「科学」が利用されるのは健全なことではない。さうしたものから注意深く「ニセ科学」を切り離す方法について科学者が真剣に取組むのに賛意を示しながら「脳トレ」ブームについて何も考察する必要を感じないのだとしたら、それは一貫性を欠いた思考だと思ふ。他の人がどうしようと知らないけれど、ワシはその立場はとらない。自分の利害に関ることについて、害する側に「非科学的だ」といふなら利する側にも同じ定規を当てる必要がある、それが科学的な思考法といふものだ。定規は気に入らない相手の頭をひつぱたくためにあるのではない。政治的な思考ならそれは「あり」だらうが、そんな言説にワシは一切興味がない。詰らないもの。
ええと、まだ全然巧く言へてないな。とりあへず「ゲーム脳を否定するなら同じ様に『脳トレ』を否定しろ」とか「ゲーム脳理論の否定として『科学的な誤り』を指摘するな」といつてゐるのではないことには注意して頂きたい。両者が繋がつてゐないことになつてゐるとしたらワシにとつては気持悪い、といふことだ。「そんなの当り前ぢやないか」といふことならばつけ加へることは何も無い。
それはそれとして、ゲーム好きとしての自分が通す筋は一つ。脳に害悪があらうがなからうが関係なく、そして脳に効用があらうがなからうが関係なく、ついでに勝ち組とか負け組とかも関係なく、ワシは好きなゲームで遊ぶよ。根つから好きだから。以上。

  • 2007年02月08日 bluesy-k