颱風の接近で各地が強風に見舞はれ、職場は自宅待機となつた。關空壞滅、渡月橋破損、京都驛破損その他諸々、爪痕は大きい。
こんな酷い颱風の日はきつとどこかで98式AVの一號機が0式と戰つてたりグリフォンと戰つてゐるに違ひない。それあ關空も孤立する訣だ。
昨日チラッと書いた通り、sd Quattro H を擔いで自轉車で最寄の空港まで冩眞を撮りに行つた。元は國際空港だつたが今やひつそりしたローカル空港になつたあそこだ。
空港なんてとこに來ること自體滅多にないし、初めてのカメラに初めてのレンズでわからんことだらけだ。ていふか自前のレンズ交換カメラが初めてだ。
500mm目一杯で狙つた通り撮るのは難しい。主に重さで。
f11でもまだ被冩界深度が淺く感じる。望遠とはさういふものなのだらうが、全く厄介なものだ。被冩界深度だのピントだのつてカメラの光學的缺陥としか思へない。滅ぶベし。全周の畫像と深度情報が無限の解像度で得られればどんな畫像も自由に作れるのに!
等倍の解像感はこの邊りが限界か? Quattroセンサーの實力は良くも惡くもこんなところか。Merrillだつたらどう撮れただらう。
長時間レンズを振囘してゐたら腕が疲れてしまつた。日向なので黒いボディもすぐ熱くなり、熱警告がやかましく出てしまふ。しばらく粘つてみたものの、發着便の數もそれほど多くはないのでそこそこで退散した。實に疲れた。
AT-Xの番宣部長にはらみー出演。大阪人アピールの爲に着てゐる服の安さ自慢を始めたので貴音ではなくやよいになつてる。
sd Quattro Hの性能テストと操作の慣熟の爲に自轉車で空港へ出掛けた。
イタリアGP、スタート直後にアクシデント發生。後方での接觸でハートレイが脱落、そしてロッジアのシケインでハミルトンとベッテルが接觸した。これらによるデブリの除去の爲にセーフティカー導入。ハミルトンに當つてスピンしたベッテルは最後尾近くに落ちた。
四周目の再スタ一トで駈引きに失敗したライコネンはハミルトンに頭を取られてしまつたものの、すぐに自力で拔き返して先頭を守つた。ベッテルとハミルトンの接觸については審議の結果ペナルティなしとなつた。
後方から追上げるリキアルドとベッテルの前ではルクレールとガスリーがバトルしてゐて、これを拔きあぐねる間にリキアルドはベッテルに拔かれてしまつた。リキアルドとしてはガスリーにサボートして欲しかったのだらうが、來年リキアルドのシートに座るのが他ならぬガスリーである。讓るどころかホイール同士の接觸も辭さない勢ひで抵抗してみせて、セカンドチームらしい振舞ひなど一度もしなかつた。その意氣や良し。
そろそろタイヤ交換のウインドウに差掛かり、メルセデスが先に動きを見せた。これにフェラーリが反應してライコネンをピットに入れたのを見届けて、メルセデスは撤收。ブラフが見事に決つた。
http://pbs.twimg.com/media/DmF-9NTUcAALbao.jpgimage:w400
二十五周目にリキアルドのパワーユニットがブロー。絶妙すぎるタイミングだが、SC*1にもVSC*2にもならず。イタリアだから空氣を讀んだか。
ハミルトンは雨を待つてコースに長く留まり續けたが、セーフティカーの當ても外れてピットイン。ライコネンが前に出る。しかし先頭にはまだボッタスが居て、絶妙な遅さでライコネンの蓋となり、ハミルトンをサポート。これがチームプレイだ。
これが效を奏してハミルトンが再びトップに。ブラフに引掛つたライコネンはもうタイヤも殘つてをらず、チームから「縁石を使ふな」と釘まで刺される始末。勿論それに從ふライコネンではない。それでも差は開く一方で、ハミルトンがまたも優勝を決めた。
フェラーリは速かつた。ただ速いだけだつた。對するメルセデスは強かつた。メルセデスの仕掛けた罠にまんまと嵌つて、速いマシンを速く走らせられなくされた。レースだけを振返ればさういふことになるが、ちよつと違ふよな。
敗因はベッテルにポールを獲らせられなかつたこと、それしかない。先頭から逃げ切れる展開に持込めれば勝つてゐた。ベッテルはさういふ奴だ。それに失敗した時點で手網はメルセデスが握つてたんだ。
「Forza Motorsport 7」フォーミュラフォード エコブーストのレース。純レースカーだと思ふのだが、テールランプだけ何故か公道仕樣になつてゐる。本來このパーツは無い筈だ。で、こんな雨でレースする車でもないよなあ。雨のホッケンハイムなんてべッテルですらミスするんだぞ。それはさうと、このマールボロカラーのユーザーデカールはフォード繋がりでマクラーレンMP4/8のオマージュなんだけど、よく出來てる。作つた人のセンスがいいなあ。
さてイタリアGP豫選。まづニュースとして日本GPの鈴鹿での開催が二〇二一年まで更新された。今年で最後か、なんて思つてもゐたんだけど、良かつた良かつた。で、今年はホンダがタイトルスポンサーとなり「ホンダフォーミュラワン日本グランプリ」が正式名稱となる由。
本題のイタリアGPQ1。
凄いよね、十番手から十八番手まで、それぞれが十分の一秒より小さいタイム差しかない。足切りラインのグロージャンから三臺は千分の一、二秒差。もう速いとか遅いとかぢやなく、「同じタイム」で競つてる。全部足してもフェラーリとメルセデスの差の方が大きい。盡く盡く凄いよね。
Q2。ガスリーとマグヌッセンの間の足切りラインはまたも千分の二秒差。ただしこちらはマグヌッセンがアロンソと絡みながら第一シケインを通過せざるを得なかつた爲なので、ちよつと可哀相。二〇〇五年のモントヤのコースレコードが遂に破られた。
Q3。ルイスが、セブが、そしてキミが次々とコースレコードを更新する。タイミングモニターを眺めてゐるだけで面白かつた。そしてキミ・ライコネンが久し振りにポールを獲得。今度こそ、な?
「空飛ぶクルマ」実用化に向けて意見交換が行われる / Twitter
空飛ぶ車といふ個別の對象の議論では濟まされない問題だけど大丈夫かな。
世の中、大きなエネルギーを取扱ふには大抵免許を要することになつてゐる。電氣工事、ボイラー、爆發物などがさうだ。そして乘り物に免許が必要なのも、突き詰めれば「大きな運動エネルギー」を取扱ふからだ。まして飛行物體となると、それ自體の持つ質量と位置エネルギーが破壞的な運動エネルギーに變換され得る。その潜在的な危險性を外部から都合良く無力化する方法は物理的に存在し得ない。當り前すぎることだが、その邊をなあなあにしたままの議論ならあまり意味はないんぢやないかな。しらんけど。
イタリアGP、フリー走行二囘目の開始後間もなくエリクソンが激しくクラッシュ。第一シケインのエントリーでブレーキか片效きした樣に巻込んで壁に激突し、マシンは空中で錐揉みになり四囘轉もして落下した。エリクソンは無傷だが、ヘイローが土を抉つてゐた。前戰のルクレールに續いてヘイローの效果を身を以て示したことになる。これが運動エネルギー。
はてなダイアリー終了のお報せ。
2019年春「はてなダイアリー」終了のお知らせと「はてなブログ」への移行のお願い - はてなダイアリー日記
まあ今時httpsでないのもどうかとは思ふけどね。しかし代りのサービスがあるから移つてね、とかこつちの方が機能が上だから、で濟まされてはかなはない。
はてなブログはサービス開始直後に調べてみたことがあるが、ダイアリーの樣に日付でエントリーを纏められないので興味を失つてゐた。はてなダイアリーにおいては記事單位の上位に日單位の概念があることが重要で、それがはてなブログでは「日付の名前の一エントリ」として互換されるのならばそれは俺が欲しい物ではない。しかし強制的に移行されるのなら仕方ない。納得はしてゐない。せめてダイアリ-互換の構成くらゐは實裝してくれ。
日本語の正誤こだわる社会「辞書も加担」 飯間浩明さん:朝日新聞デジタル
どうもこの飯間氏は現状追認が過ぎる嫌ひがある。
我々が日常的に使つてゐるデジタル通信は膨大なパケットエラーを削ぎ落し、あるいは訂正して相互に正しいことが保証されたものを殘して情報を傳達してゐる。このエラー訂正を拔きに通信は成立しない。
我々の身體の内側でも、無數に發生するエラー細胞が免疫機構によって潰されることで健康體が維持される。それでも殘つたエラー持ちの細胞が癌化することもあると、「はたらく細胞」でも言つてゐる。言葉が生き物であるならば、エラーは訂正されないと容易に死んでしまふのだ。では辭書のあるべき役割とは何ぞや。
現代語を採録するならするで、大抵は既存の言葉の言ひ換へでしかないことが多いのだから、「ほぼほぼ→ほぼ」の樣に既存の言葉にリダイレクトすればよい。辭書の機能とはさういふものだらう。
sd Quattro Hと50-500mmレンズが届いた。こんな長物、家の周りで使へないのでどこかに撮りに出かけなくてはな。
最低限の使ひ方をマスターするまで無駄にシャッ夕ーを切つてゐるが、カメラ自體に特別興味がある訣ではないのでまあそこそこに。欲しいのは撮つたものであつて撮る道具ではないのだ。
sd Quattro Hをポチッた。
End of the race in the 1st corner. Frustrating.
— Charles Leclerc (@Charles_Leclerc) August 26, 2018
Never been a fan of the halo but I have to say that I was very happy to have it over my head today !
📷: @f1gregoryheirman / @fotoformulak pic.twitter.com/QILqoVtjVh
へイローの有難みを語るルクレール。へルメットのすぐ上を、運動エネルギーを持つた八百キログラムの物體が乘越えて行つたのだ。それで無傷だつたんだよ。
晝間舊友と會ふ待合せの時間潰しにコーヒースタンドに寄つたら、そこで出されたのがハンドドリップの薄すぎるコーヒーだつた。カップの底まで綺麗に透けて見える薄茶色の湯。ペットボトルの麦茶の方がまだ濃い色をしてゐるだらう。かういふのをいただいてもコーヒーを飲みたい氣持が滿たされるどころか逆に飢えてしまふので勘辯してほしい。
さてベルギーGP決勝。スタート直後に多重クラッシュが起り、四臺がリタイア。ヒュルケンべルクがアロンソに追突、彈かれたアロンソが宙を飛んでルクレールの頭上を乘越えて行つた。ヘイローが無かつたらルクレールの頭がどうなつてゐたかわからない程、近年稀に見る危ない事故だつた。
セーフティカーが明けると、四臺の内の一臺リキアルドはリアウイングの交換でコースに戻つた。
ライコネンが誰かにリアタイヤを切られてバースト、マシンに深刻なダメージとなつてリタイア。ポールを獲つてればこんなことにはならなかつたらう。
It's a shame @ScuderiaFerrari! pic.twitter.com/oLobqWL7D8
— Kimi Räikkönen #bwoah (@Kimi7iceman) August 25, 2018
まさにこれ。チームに足を引張られてる。
丁度半分を消化して、ハミルトンとベッテルが續けてピットイン。ベッテルが首位を守つてゐる。
ハートレイとエリクソンが拔きつ拔かれつ。DRSが使へるとしても、スパでフェラーリと拔合ひができるまでにはなつてるのか、ホンダ。リキアルドは二周遅れを囘復する目途が立たずにリタイア。セーフティカーでも待つてゐたのだらうけど。
後は特に何事もなく、べッテルが久し振りに力でハミルトンを制して優勝。ずつとかういふのが出來てればいいんだけど、今のフェラーリには難しい。一方のライコネンにやらかしたミスなどを踏へるとね。まあ少しは終盤に希望を持たせて下さいな。
Switchのゲームを毎週買ひ續ける天國(ぢごく)。
「スカイギャンブラーズ」。レシプロ機のカジュアルなフライトシューティング。最低限必要なものは全部ある感じ。ただロックオンしてミサイルをブッ放すゲームでないから結構遊べる。まあ、敵の旗に向って飛んで機銃を撃つだけといへば身も蓋もないが、便利な旗やマーカーなしで空戦ゲームが成立し得るかといふとそれも難しい。
「アケアカNEOGEO クロスソード」。今にして思へばドラクエソードの源流の樣なゲームかもしれない。そしてこのゲーム性の進化した先がモンハンなのかもしれない。面白いけど難しいゲームだ。
さて、夏休みが終つたF1のベルギーGP豫選。
Q1。偶然とは思ふがアロンソの引退絡みでシートの代る連中がノックアウトされてる感じ。
Q2。雨が降り始めてタイム更新の危ぶまれる中、ボッタスがソフトタイヤで好タイムを出した。ペナルティ降格が決つてゐるので、意味のあるタイヤ選択となりさうだ。
Q3、ドライで各車走り始めたがとても走れたものではなく、インターミディエイトでタイムを競ふことになった結果、フォースインディアが二列目を確保。今戰から體制が變り、レーシングポイント・フォースインディアとして再出發*1して、幸先の良い豫選となつた。ハミルトンはずつとフェラーリの後塵を拝してゐたのに最後に雨を味方につけた。一方、ライコネンは燃料の設定ミスで走れなくなりチャンスを逃した。さういふとこやぞ…。
F1チケットが届いた。いつもの紙チケットではなく豪勢なプラ製チケット。柄は自分で選べたのでライコネンにした。
べルギーGPフリー走行で今宮氏と森脇氏が引退發表したアロンソを一所懸命持上げようとしてゐるけど、どれも逆の意味にしか受取れない自分が哀しい。「アロンソは僅差でランキング二位の年が多い、それが彼の優秀さだ」つて言ふけど、彼程の實力があつてトップチームに所属しながら尚勝ち切れない弱さをしか表はしてないんだよそれは。チャンピオンを二回獲つて以降の十數年、彼の相手はそのキャリアからしたら「格下」ぱつかりで、そのすべてに彼は敗けたんだよ。
「Forza Motorsport 7」Dクラスフォードフィエスタでニュル北。FF車といふことで、最大の敵はステアリングコントローラーの發熱だつた。パッシブなフィードバックに加へ、セルフステアのトルクとFF故のハンドルの重さがモーター負荷となってかかり續けるので、ニュル半周程でセーフティ機構が働いて反力が弱くなり、小一時間も走るとコントローラーの電源が落ちる。ゲーム部屋には冷房がないので致し方なし。
いつもニコニコしてる認知症のおばあさんが書いたメモに衝撃…認知症って周りも辛いけど、本人も辛い - Togetter
この話は認知症に留まらない。四年前に他界した祖母は、腦梗塞で發語能力を失つて最晩年を過した。身體を動かすこともままならず、食事もすベて流動食になつて、しかし意識ははつきりしたままで、時折悔し涙を流してゐるのが見てゐて辛かつた。
言葉を話せない祖母に何かを話して意志を窺ふとき、その言葉はどうしても赤ん坊やペットに向けたそれと似た感じになつてしまふ。祖母はそれに否應以外の返事をすることもできない。圓滑にコミュニケーションが取れない、ただそれだけのことがこんなに不安で悔しいことなのかと思ひ知つたが、結局周圍に出來ることは何なのかについて、ちやんとした答が出せぬままに祖母は逝つてしまつた。
何処の誰が言って居たか忘れましたが、"言葉は生き物である" 私的にはこの言葉が一番しっくり来る。
— meta-metal@飽きたんで元に戻す (@AVIREX22) August 10, 2018
その時々の状況は環境により、進化も退化もする。
人が人為的に手を加える事もある。
「言葉は生き物である」これを全面的に肯定するならば、そこから導かれるのは次の論である。
生物がどんなに進化して姿形が變らうとも、目は目、鼻は鼻、口は口、腕は腕、脚は脚、心臓は心臓である。ただの思ひ付きである日自分の手足を切落しても人間は蛇にはなれないし、ジャングルの虎が猫を産むこともない。生き物とはとことん保守的で本質的に變らないものなのだ。
進化も退化も環境に合せて途方もない時間をかけて少しづつ適應した結果を指して言ふものであつて、世代を跨ぐことなく進化や退化などが起ることは絶對にない。さういふ生き物の「當り前」に目もくれず「言葉は生き物である」などと安易に言ひ表すことに如何ほどの意味があらうか。それは「物事についてちよつとでも考へたことがありません」と表明してゐるのと何も變らない。遣傳子を弄るのだつて好き勝手にできることぢやない。生き物を「變へる」といふのは決して安易にできることではない。言葉も然り。
言葉の表記を變へるといつたつて、結局それは日本語の顔に流行りの化粧を塗りたくつて滿足してゐるだけだ。化粧を落してみれば目鼻立ちひとつ變つちやゐない。見た目を整形でどうにかしたつて、その子供は遣傳子に從つた顔立ちで生まれるしかないのである。正字正假名を使ふといふことは、素ッぴんの日本語であるといふこと。化粧は好きにすればよいが、その下にあるものは變らぬのだ。