大和但馬屋日記

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日本語(遣傳子組換へでない)

「言葉は生き物である」これを全面的に肯定するならば、そこから導かれるのは次の論である。

生物がどんなに進化して姿形が變らうとも、目は目、鼻は鼻、口は口、腕は腕、脚は脚、心臓は心臓である。ただの思ひ付きである日自分の手足を切落しても人間は蛇にはなれないし、ジャングルの虎が猫を産むこともない。生き物とはとことん保守的で本質的に變らないものなのだ。

進化も退化も環境に合せて途方もない時間をかけて少しづつ適應した結果を指して言ふものであつて、世代を跨ぐことなく進化や退化などが起ることは絶對にない。さういふ生き物の「當り前」に目もくれず「言葉は生き物である」などと安易に言ひ表すことに如何ほどの意味があらうか。それは「物事についてちよつとでも考へたことがありません」と表明してゐるのと何も變らない。遣傳子を弄るのだつて好き勝手にできることぢやない。生き物を「變へる」といふのは決して安易にできることではない。言葉も然り。

言葉の表記を變へるといつたつて、結局それは日本語の顔に流行りの化粧を塗りたくつて滿足してゐるだけだ。化粧を落してみれば目鼻立ちひとつ變つちやゐない。見た目を整形でどうにかしたつて、その子供は遣傳子に從つた顔立ちで生まれるしかないのである。正字正假名を使ふといふことは、素ッぴんの日本語であるといふこと。化粧は好きにすればよいが、その下にあるものは變らぬのだ。