大和但馬屋日記

はてなダイアリーからの移行中

コントローラブルであるといふ自由

昔出入りしてゐたあるF1掲示板で、「真のスポーツカーとはなんぞや」といふ話題が出た。その時、初代フェスティバを例に挙げた人が居て、しかしその人は少数の賛同者を除いて多数の失笑と罵倒を買つてしまつたといふことがあつた。
オレは自分で運転した車の種類なんざ片手の指で足りる程度でフェスティバに乗つたことも無かつたから賛成も反対もできなかつたが、そのフェスティバを挙げた人の言ふことは十分理解できたし、多分それが正しいと思つた。笑つた連中は、フェスティバがファミリーワゴンとして作られてゐるといふその一点だけで、スポーツカーであることを認められなかつたのだらう。
丁度その頃、安物とはいへ初めてマウンテンバイクとして売られてゐる自転車を買つて乗り始めたのだが、そのときは「ああなんて凄い乗物なんだらうこれは」と思つたものである。なんせ、ペダルを踏むと走り出す。凄い。高校生の頃通学用に乗つてゐたスポーツサイクル(ナショナルのランディオーネだつた)の頃の記憶とは大違ひだつた。もちろん、ママチャリとは比べるべくもない。フレームの軽さと硬さが相俟つて、自転車を意のままに操れる気がした。自分が「かうしたい」といふ意図がダイレクトに路面に反映される気がした。まあ、さういふのは得てして「気のせゐ」だつたりするのだが、「ああ、かういふのがスポーツなんだな」と思つた。それを起点に自分の身体のコントロールに興味を持つてシャカリキな生活を始めないところが如何にも怠惰なオレだけれど、それは措いといて。
プロのアスリートとは、さういふ風に自己のコンディション管理から始まつて、競技に関する一挙手一投足のすべてを自分の意志の支配下に御ける人のことを言ふのだらう。故に、どんなルールに縛られた競技であれ、その競技中のアスリートはこの上ない自由を味はつてゐるはずだ。初めて自在に操れる気がする自転車に乗つたオレもさうだし、フェスティバを「スポーツカーだ」と言つた人の真意も多分そこにある。
自由とは「なんでもあなたに選ばせてあげますよ」といふ状況のことをいふのではなく、状況を如何に自分の意志の元にコントロールしてゐるかといふことを指すのだ、オレの中では。
もちろん、アスリートが自由であることと競技の勝ち負けは、また別の問題だ。フェスティバとGTOがサーキットを走ればどちらが速いかなどは見比べるまでもない。さういふ勝ち負けとは関係なく自由は存在する。そして、人は『自由である』と感じられる状態を何故だか知らんが幸せだと思ふのだ。

  • 2005年08月11日 DocSeri