大和但馬屋日記

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耳とスピーカの距離

意識的に音楽を聴くときはヘッドホンを使ふのが当り前といふ生活を何年もしてゐる。家にそれなりのオーディオ機器はあるけれども、テレビやビデオやゲームの音もそこから鳴るやうにしてゐるので、それで音楽を聴く優先順位は著しく低い。たまに聴きたくなつたときは、大きいスピーカに物をいはせて部屋を音で満たしてしまふので、結局ヘッドホンと変らない。何が変らないかといふと、音に包まれてしまふ感覚がである。
で、時々、その感覚が鬱陶しく感じることがある。ちやんと聴いてゐるやうで耳を素通りしてしまふこともある。「あの曲が聴きたい」と思つてヘッドホンまで用意したのに、「曲を聴く」といふ行為が勝ちすぎて結局聴いてないみたいな。手間隙かけて淹れた茶を、席にもつかずに立つたままグイ呑みして終り、みたいな。
で、いい加減しつこいDS+PLAY-YANの組合せだが、これくらゐの距離がオレには丁度いいみたいだ。チープだけどそれなりに分解能のある音質で、耳から離れたところから聞こえる音。歌つきの音楽だと歌詞がよく耳に入る。音に包まれてゐると歌詞が意味を持つて聞こえなくなることがよくあるが、これならさういふこともない。
何といふか、自分が「音楽を聴くこと」に縛られてゐる感じがしない。初代ウォークマン(は持つてゐなかつたけど、東芝の初代ウォーキーを親戚に買つてもらつたことがある)以来、携帯プレイヤーで音楽を持ち歩くのがひとつの「自由の象徴」みたいな認識があつたけど、実はあのヘッドホンは首輪みたいなもので、むしろオレは音楽に首を繋がれてゐただけなのではないかと。何年かおきに携帯プレイヤーを買つては使はなくなり、また新しいメディアのを買ふといふことを繰返してきたのは、音楽を求める心のほかにその軛から逃れたいといふ気持ちが働いてゐたのではないか。
部屋の片隅で埃を被つてゐるMDプレイヤーを再び使ふことはないだらうし、iPodは勿論便利だけど、それでもなんだか優先度が少し下がつた気がする。iPodを使はなくてはならない場所以外では別に使ひたくないと思ふほどに。
いやね、こんなに気に入るとは自分でも思つてなかつたのですよ。何より自分がビックリだ。