大和但馬屋日記

はてなダイアリーからの移行中

私が何故譬へ話を警戒するか

格好のサンプルとなる議論。

まあ、例の件から発した議論ではあるが、一往独立した議論として採上げたい。
上記のやりとりの中で、平野氏が「正しい/正しくない」を「ハンバーグを食べる/食べない」に置換へた。野嵜氏はそれを受けてハンバーグで話を進めてゐる。もちろんきちんと注意が払はれてをり、主題を見失ふことなく話が進んでゐる。
譬へ話を用ゐた議論が常にこの様に進むのであれば全く問題はないし、「正しい/正しくない」といふ、議論を進める為の障碍となり得るコノテーション*1を多分に含んだ主題を、一旦卑近な例にすることで話を進め易くする効果も引き出せてゐる。実に全く問題はない。
しかし、私は常にかうした議論が行はれることを信じてゐない。むしろ逆である場合の方が多いと言ひ切つてよいと思ふ。上記の例でいへば、野嵜氏の下記の記述。

しかし、本當に「ハンバーグを食べてもよいし、食べなくてもよい」人は、「ハンバーグを食べなければならない」とする命令に、唯々諾々として從ふ筈である。「食べなくてもよい」けれども、別に「食べてもよい」のである。「食べない」に固執すべき理由はない。もし、「食べなければならない」に抵抗するとしたら、その時點でその人は、「食べてもよいし、食べなくてもよい」と云ふ意見を抛棄し、「食べない」と云ふ意見を諸有した事になる。

これは、野嵜氏が誤読可能性を減らすために強調を挟んでゐても、なほ誤読する人が現れ易い部分だと思ふ。「自分は今ハンバーグを食べたいわけではない」「何を食べるかを命令される謂れはない」云々。あくまで論理的な正しさの問題を扱つてゐた筈が、いつの間にか「ハンバーグを食べる自由」だの「権利」だのの話にずれる可能性が極めて高い。本人には論点をずらしてゐるといふ自覚が全くないままに、である。ここから話は往々にして「野嵜といふ人間は他人がハンバーグを喰ふ権利にまで口を出す気に入らない奴だ」といふ風に繋がつて、勝手に野嵜氏を敵視する人間が増えるといふ筋書きまでがワンセットで思ひ浮んでしまふのだが、なんとも気の毒なことだ。
少し脱線したが、この様に譬へ話は誤読を誘発しやすい。前述の引用文を最初からハンバーグの話として読めば、やはりこれはどこかをかしいものとして読めてしまふからだ。「正しいといふことに拘る/拘らない」と「ハンバーグを食べる/食べない」は形而上/形而下のレベルの異る話だから、完全に内容が一致することはない。故に、議論の当事者だけでなく、読者も「譬へ話が本当は何を示してゐるか」を注意深く読み取らなくてはならない。譬へ話をしたからといつて、話の内容そのものが簡単になつたりはしないのだ。
議論を円滑に進めるために、或いは他に表現のしやうがなくて譬へ話を持ち出すのは構はない。しかし、譬喩(メタファー)を用ゐることを前提なり目的なりにして行はれる対話は、ブレインストーミングとしてはよくても議論としてはよくない。話を膨らませるのがブレストで着地点を探るのが議論だとここで乱暴に定義しておくが、一方が議論のつもりでもう一方はブレストのつもりだつたとか、ブレストから始まつた話がいつの間にが議論に変つてゐたとか、双方議論をしてゐるつもりがそれブレストぢやんとか、ともかくさうして話が噛み合なくなつてきた時は、「そもそも何の話をしてゐたのだつけ」と足元を見直す必要があるはずで、さうした場合に「ちよつと今は譬へ話はやめようよ」と言つてみること自体は別に不自然ではないと思ふ。
私が譬へ話を徹底的に排除してゐるやうに見られがちなのは、話に最初から加はつてゐなくて、いきなり「ちよつと今は譬へ話はやめようよ」の部分で割つて入ることが多いからではないだらうか。だとしたら、私の非は譬へ話を排除しようとすることにではなく、どこかの議論に途中から口を挟むことにあるのだらう。私としてはそれで議論が収まるのなら一概に*2悪いことではないと思つてはゐるが、傍目にはやはり無神経に映るだらうから少しは注意を払ふことを覚えなくてはならないな。

この記事にコメント/トラックバック

*1:使ひ馴れない言葉を敢へて使つてみた。用法に間違ひがあれば指摘よろしく

*2:譬へ話が一概に悪くないのと同じ程度には