大和但馬屋日記

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譬へ話の続き

一昨日の続き。

例に出すと、自分は、政治家、官僚、科学者などの専門家、の発言などで、理屈の上では成り立っているのだけれど、「あれ、それなんか胡散臭いぞ」と本能的に感じた事柄を「じゃあ、ナゼ胡散臭いのだ」と自分の中で考察する時によく使うのですね。
こういう分野についての考察って、分野が特殊ゆえ、「民間」に属する自分などには、資料やデータをベースにして「演繹的に」結論を導き出す事が、実質的にほとんど出来ないのではないか、と思うんですね。
で、自分みたいな人間が、そういう手の届きにくい分野について考えをめぐらせる場合は、自分でも理解できる世界では、同じような状況の場合、どうなるのか、と「例え話」を理解の助けの一つとして、使う訳です。
つまり、シロートであっても、「例え話」を使う事で、いわゆる「専門家の論理」という奴にツッコミを入れる事が出来る、という訳です。

仰らんとする意味は伝はりました。が、やはりそれはスウプさんの方法ではあつても私の方法ではないな、といふのが正直な感想です。
自分の知識や経験の及ばない世界の話を「胡散臭いぞ」と本能的に感じた場合にどうすべきか、といふ話ですよね。どうすべきでせう。その「胡散臭さ」が正しいかどうかを判断するにも、その材料が手許に不足してゐるわけです。それを、自分の理解できる世界の話に事寄せて置き換へたところで、それが正しく置き換へられたかどうかすら判断しやうがない。対話中に「今のAがBであるといふ話は、譬へていふならCがDであるといふ様なものですか?」と念を押すのであれば私が提示した要件を満たすので問題は少ないと思ひますが、さうでない場合は結局一人合点をしてゐるにすぎないのかもしれない。これは理解の方法としては非常にまづいでせう。方法論の優先順位としては後ろの方に追ひやつてしまひたいものです。
理解し難い話に直面した場合に、別の何かに擬へて分つた気になつても、それは分つた気になつてゐるだけである確率が高いと思ひます。そこのところに自覚的であれば良いですが、好んで譬へ話をする人ほどそこに無自覚な場合が多いんではないかと、これはまあ偏見ですが、経験上そんな風に考へてゐます。それよりは、理解するための知識や経験が足りず、(今の)自分には理解できない話であることを認めた方がいくらかましでせう。理解できないまま放置しておくか、理解するために何らかの努力をするかはその後の話として措いておきます。
立場を明確にするために極論気味に書いてゐますが、私の「ろくなもんぢやない」発言はあくまで「かうありたい」といふ願望から発したもので、「スウプさんの方法によつてスウプさんが必ずさういふ理解をしてしまふに違ひない」などと言ひたいわけではありません。ただ、私自身は間違ひなくその罠に落ちることが明らかで、例へば昨日付けの「911事件の食玩」の記事の様な、自分で引いたダメな線スレスレの「ろくでもない」文章をつい書いてしまふわけです。そんな自分を戒めるためにも、目標として「譬へ話に頼らない」ことを掲げておきたいと思ひます。