大和但馬屋日記

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とある誤解を解く試み

常用漢字見直し - 大和但馬屋日記の続き。
正字正かなのやうな「正統表記」に対してよく向けられる批判的な言辞として「言葉は生き物だから時代とともに変化するものだ。正字正かなを使ふ連中はそんなことも分らない懐古主義者どもだ」といふのがあり、この日記でも折に触れてそれが誤つた考へであることを指摘してゐるが、昨日の「常用漢字表の見直し」といふニュースもまさにそれを裏付けるものだ。
情報化時代に合せて云々と言ひ訳してゐるけれども、要するに漢字制限を緩める方向に進めたいと言つてゐるのである。六十年近く前に「旧漢字」を捨てて漢字制限を行ふことこそが進歩であると考へた人達にとつては、これは逆行以外の何物でもない。当時の国語政策の主幹の一つがどうも具合が悪いと誰もが認めざるを得なくなつてゐるわけで、これはたしかに時代に合せた変化ではあるけれども、自然な変化とはとてもいへない。むしろ自然な変化を妨げてゐた枷がガタついてきたといふことであつて、この六十年間はずいぶん無駄な回り道をしてゐたと考へる方がよほど妥当だ。
人名用漢字の追加にしてもさうだが、いちいち国から「この字は使つてよい」だのなんだのと教へてもらふ必要はない。貴重な税金をそんなことで頭を悩ます為に使はないでいただきたいものだと思ふ。
どうしても「言葉は生き物だ」といふ譬へに拘りたい人には、よろしい、ではこの様な譬へ話はどうか。常用漢字表に限らず、何らかの権力による文字や言葉の制限は、「言葉」といふ生き物と、それを用ゐる国民を「飼主」が都合よく*1飼ひ馴らさうとして填める首輪である。それを填める理由が善意と悪意のどちらに基くかはこの際問題ではない。結果として首輪は「言葉」の自由を奪つてゐる。「言葉」は成長を続ける生き物だが、首輪のサイズは変らないからどんどん息苦しくなる。今行はれようとしてゐるのは首輪を穴一つ分緩めるか二つ分緩めるかといふ論議であつて、本質的に「言葉」が自由を取り戻すこととは全く次元の異なる話である。
さて、そもそも「言葉」といふ生き物にとつて、首輪は必要だらうか。もしも必要だと言ふなら、その理由はどこにあるだらうか。現実には言葉は生き物ではないから、首輪が填められてゐるのはそれを用ゐる我々自身といふことなのだが、皆はそれで構はないのだらうか。オレは嫌だ。


それにしても、譬へ話で説得的な文章を書かうとすると、いとも簡単に「軍靴の足音」が聞こえさうになりますな。笑。

*1:とはいふものの、何がどう都合が良いのかは飼主自身にも理解できてゐないらしい