大和但馬屋日記

はてなダイアリーからの移行中

このところ不機嫌なエントリが続くのは、聊か不愉快な記事を目にして気分がささくれてゐたためでも*1あるのだが、その機嫌が収まる前にhttp://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.htmlに批判記事が上がつたのを見て、自分の怒りを他人任せにして溜飲を下げるのもどうかと思つた。故に、尻馬の謗りを覚悟しつつ私からも意見させていただくことにする。野嵜氏と論旨の重なる部分もあらうが、それは気にしないことにする。

もう、待つてましたとばかりの悪口である。おそらくはいつかどこかのタイミングで正かなについて揶揄を飛ばしたいと思つてゐたのだらう。そこへ「中二病」といふレッテル貼りに都合よい言葉がやつてきたものだから、仕事が忙しいのも省みず嬉々として使つた様子がありありと伺へる。無邪気なものである。「少なくともオレには無邪気にしか感じられない」。
鈴木(id:yskszk)氏は所謂正かな派を「中二病」といふ。そして正かなに限らず何らかの正しい規範を認める態度全般に対して同じレッテルを貼る。「楽」に流されてそれをやめることを中二病から解放(むしろ「快方」ちふか)されるといひ、さうした一連の言説が踏み込んだ分析に耐へ得ると思つてゐる。笑止千万である。真艫な思考力を持つてゐれば分ることだが、「○○は中二病」などといふのは反論を封じる効果をもつレッテル貼りにすぎない。先にレッテルを貼つておけば、いかなる反論も「厨房必死だな」であしらふことのできる魔法の言葉である。中二病から解放だか快方だかされた中年オヤジのやることが、他者に「中二病」とレッテルを貼つて嘲笑することであるならば、まだ中二病と笑はれる方がマシだとすら思はれる。同世代のオヤジとしてさう思ふ。それにしても「オレも昔は正かなを使つてたもんだがなあ」などとは、如何にも昔の青春ドラマに出てくる分別くさいオヤジのやうな言草ではないか。
そもそも「中二病」とは一種の譬喩にすぎない。私はこの日記で今まで何度も譬へ話のマイナス面について意見してゐる。その中でも代表的なのがこれだ。

奇しくも鈴木氏の文章からインスピレーションを得て書いたものを持ち出してその当人の記事を批判することになるとは思はなかつたが、鈴木氏が今なされてゐるのはまさに後者のエントリで述べたやうなことなのだから性質が悪い。鈴木氏の言ふところの「踏み込んだ分析」なるものがどのやうなものであるにせよ、譬へ話に終始した俗流社会学的言説の域を一歩も出まい。仮にさういふものであれば、どうせ読む価値はない。おそらくは言ひ放しを正当化するためのポーズにすぎないのだらう。
誰が何を言はうと勝手ではあるし、言葉遊び或いは概念的な遊びとして「○○は中二病」とシニシズムに酔つて言つてゐるうちは良い*2。「正かなを使つてゐて」「HTMLやCSSの件でつい最近怒つた文を書いたことがあつて」「はてなのキーワード周りであれこれ言つたことのある」私に向けて書かれたとしか思へない文章を読んでしまつたのだから(勿論キーワード「中二病」を辿つてだ)、言はれた当事者としては抗弁くらゐはさせていただく。勿論鈴木氏は「そちらのことなど知らない、そちらが勝手に怒つてゐるだけだ」と仰るかもしれない。しかし、書いた人の意図とは関係なく、書かれた文章は明かに私の方を向いてゐる。さう思ふ理由は前述した通りであつて、それでも「お前のことではない」と仰るのであれば「ならば対象をぼかした嫌味など書かないでいただきたい、不愉快だ」と抗議させていただく。(これはあくまで仮定の上での話である)。
この記事の目的は、悪口を言はれた側による抗弁である。鈴木氏に謝罪や撤回を求めるものではない。もし「踏み込んだ分析」なるものが提示され、それが読んで納得いくやうなものであれば怒りも収まるだらうが、今はただ不愉快である。正かなが気に入らないならそれを真直ぐ指摘すればよからう、下衆が*3言葉が過ぎた。参照:id:yms-zun:20050324


*1:「も」といふからには他にもあるが、ここでは関係ない

*2:良くはないが、まあ良いさ

*3:これは勿論「中二病」に対応した譬喩である。「少なくともオレには以下略」