大和但馬屋日記

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萌え

面白い考察だと思つた。
ワシは「萌え」といふ言葉を、ネット上でオタク同士の会話のハードルを引下げるために発明された言葉だと理解してゐる*1。インターネット普及前のパソコン通信で、近しい趣味を持つ者が気軽に会話に参加するために「(適当なキャラの名前)萌え〜」と書いておくのはたいへん便利だつたのだ。
共通の対象とその周辺の話題で盛上るためのキーワードとして「萌え」がある。仮令実は本気でさうは思つてゐなくとも、逆にそんな言葉で言ひ表せないほど深い情熱をその対象に抱いてゐたとしても、「萌え」をキーワードにしてコミュニティのレベルを(まあ、大抵の場合は低いところに)規定し、自らのネット人格のレベルも同じところに揃へることができる。少し言葉を変へればその場の「空気」を読みやすいものにし、「和」を保つ効果がある、といふことだ。つまり、その時点での「萌え」とは自立した概念ではなく、オタク同士の緩い付合ひの中に何となく存在するものでしかなかつた。
ところが、コミュニティの和を保つ道具としての言葉が浸透するにつれ、いつしか言葉自体に意味が与へられ様になる。といふか、後からその言葉を聞いてそこに意味を求める者が増えてくる。それあ、耳慣れぬ言葉を聞けば誰だつてさうするだらう。でも、元々言葉自体に深い意味があつた訣ではないから様々な解釈が生まれる余地がある。やがて、それがまるで所与の自立した概念であるかの様に認識され、目的に変化し、具体的な物(商品)として消費される様になる。今ここ。
といふわけで、「萌え」とは本来オタ同士が緩いコミュニティを保つ為のツールであるから、どこまで行つても表層的なものでしか有得ないといふのが私見。で、今は「萌え」材料に溢れ返つてゐるから、それを追ひ続けるだけでまるでオタクの様な振舞ひに見えるけれど、そんな上ッ面だけなのは全然オタクではないのだよとか言ひ出すと危ない兆候。所謂「濃い」オタクに東浩紀の論の受けが悪い原因のひとつはここにあると思ふ。
でも、その「萌え」さへも突抜けて追ひ続ければ立派な「萌えオタク」になる訣で‥‥いや、さういふメタレベルの話は面倒だからやめとかう。


くだくだ書いたこともだいたいd:keyword:萌えにあることの繰返しになつてるな、と思つたのは良いとして、当該キーワードを最初に作つたのが芹澤さんであることに驚いた。いや、驚かなくてもいいのか。

*1:言葉の起源を具体的な何かに求めることには興味がない