珍しく都営浅草線に乗る用があつて(大抵の用は銀座線で足りる),京急電車の「ドレミファインバータ」とやらに初めて出くわした。まあ,音感のないオレの耳でも「ド〜レミファソラシド〜」と鳴つてゐるのでないことはわかる*1。音感ばかりでなく音楽理論もサッパリなのでちやんと調に乗つてゐるのかどうかもわからないが,あまり収まりのいいスケールでない様に思ふ。
で,かうしたものを作つた理由が「どうせ聞こえるのだから音階にしてしまはう」といふ発想によるものなのださうだが,収まりの悪いスケールを無理やり聞かされるといふのは,むしろ迷惑なのではないか。これなら,普通のVVVFインバータの「キュ〜ンキュ〜ン」といふ音の方がオレにとつてはマシだ。
人間,ただの騒音にはある程度慣れることができる。自然の音であれ人工的な音であれ,日常的に聞こえる音に対してはいづれ「存在しないもの」として処理できる様になる。鉄道や高速道路や飛行場の近くに住んでゐてさへ,人はいつかそれらの発する音を気にしなくなる。
それに対して,「聞かせよう」といふ意志の働いた音には,どうしても人は反応せざるを得ない。それが警告音であれば当然のことだし,選挙カーや流しの商用車であれば迷惑と感じることはあつても「まあ,あちらも生活が掛かつてるわけだし」と割り切るほかはなからう。しかし,あのインバータの作動音はどう考へても「余計なお世話」である。本を読んでゐても,駅から発車するたびにあの調子外れな音階が耳に入つて気が散つてしまふ。どこぞでへたくそなクラリネットの練習を聞かされてゐるやうな気分になる。駅付近に住んでゐれば,あの音もいづれは気にならなくなるだらうか。
シーメンス社には余計なことをしてくれるなと言ひたい。