大和但馬屋日記

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73.4kg 21.4%

久々に体重を測つた。増えてる。
福島縣から神奈川縣に引越してきた子供が苛めに遭つてゐたといふ話。關東地方の、東京電力によつて生かされてゐるだけの者が何故そんなことができるのか。その愚かしさに耐へられない。
かつて東電管内で暮して日々の仕事をしてゐた自分はある時期、福島中央テレビで放送される地域番組の放送素材を作つてゐた。その番組のスポンサーは「東京電カ福島第一原發・福島第二原發」。有體に言へば、東電が地元に落す筈の「思ひ遣り」豫算を、東京の制作會社とCGクリエイターが喰潰してゐたといふ構圖だ。
大したバジェットではなく、弱小プロダクションが何とかトントンで喰へるくらゐでしかなかつたが、ともかくもさういふ金で一時期の俺の體は出來てゐた。制作した物の中身については自分なりに拙くも良い物にしようと取組んだつもりではある。とはいへ福島でそれがどういふ評判だったかを聞く機會はなかつた。それから何年も經つて震災が起きて以來、心に伸掛る漠然とした罪惡感は東京を離れた今でも消えない。
では原發には反對なのか? 單純に反對できればどれだけ樂だらう。しかし、それではいづれ立行かなくなることは目に見えてゐる。その日を少しでも先延しにする爲に原子力を捨てる代りになるものが地球のどこにもないことも知つてゐる。
少なくとも、事故前と同じ水準の暮しを續ける都市住ひの人間に原發を否定できる筈がないのだ。否定するなら暮しを捨てろ。電力の契約アンペアを半分にしてみろ。こまめに家電製品のスイッチを切つたくらゐで節約した氣になるな。そんなのは電氣料金が多少安上りになる以上の效果はない。せめてさういふ取組もなしにただ原發反對などと言ってゐるのは、それがどれだけ立派に見えようとも「口だけ」なのだ。
俺は拭へぬ罪惡感とともに原發の存在を肯定し、その負擔をどこかの誰かに押附けざるを得ない。東京に居る間は契約アンペアを15Aに下げて、エアコンとオーブントースターも同時に使へなくした。一人でそんなことをしても自己滿足の域を出ないが、それしか出來ることもなかつた。
だから、福島に關はる全てを穢れと見做し呪ひをかける者共を俺は人とは思はない。そんな弱さが赦される訣がない。