大和但馬屋日記

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この世界の片隅に」でよく言及され、議論の對象となるのが「二〇年八月十五日」のシーン。その日付が示す通りの歴史的な出來事のあつた日で、それに對するすずさんのリアクションが物議を醸すのはある意味當然なのだらう。「これは反戰映晝である」「反戰映畫ではない」「政治的信條を描いてゐる」「そんなものは描かれてゐない」「國民の戰爭への加害意識が描かれてゐる/ゐない」云々。この様な見解は、ほぼこの日のシーンにのみ絡めた形で言及されてゐる。そして相變らず、この手の話をする手合は畫面をろくすっぽ見てゐない。注意散漫ぢやあ、なのである。
勿論、一囘觀たくらゐで隅々まで理解が及ぶ程易しい作りの映畫ではない。一囘觀た後に殘るのは強い臺詞と激しい表情であるだらう。今これと同時期に流れてゐる本作と同じ時代を扱つた實寫映畫の豫告編の樣に、役者が腹の底から發する怒聲の様な臺詞にも匹敵する強さが、このシーンにはある。しかしそれでも、その強さに引張られてはならないのである。この強すぎる慟哭を解するには、ここまでに到るすずさんの心境の燮化をちやんと時系列に沿つて讀取らなくてはならないし、作品が何を傳へようとしてゐるかはこの慟哭が止んだ直後から叮嚀に描かれてゐるから看逃してはならない。
この日のシーンは、あくまで歴史の轉換点を描いたものであつて映畫のクライマックスなどではないのだ。前後を踏まへずに点だけ見て何かを主張する樣では、それはただ作品を自らの主張の道具として利用してゐるにすぎない。繰返し見れば見る程、そんな道具として扱へる樣な生易しい作品でないと解る。何も主張しない相手に主張を見出さうとして勝手なレッテルを貼るのは對人關係の拗れの第一歩。この作品も相對した人からさういふものを扶り出してしまふのである。怖ろしい。
ではこの映畫のクライマックスはどこか? そんなの、上映が終つてから映畫館を出るまでの間にうまく處理できない心の内がもやもやしてゐる時間に決つてゐるぢやないか。