大和但馬屋日記

はてなダイアリーからの移行中

すずさんの夢と現實

職場で若い同僚に聲を掛けられた。普段滅多に話をしない相手だが、どこかから自分が何度も「この世界の片隅に」を觀てゐることを聞きつけて來たらしかつた。彼はどうしても納屋での一件が納得いかないのだといふ。さういふ人は多からう。自分の中ではある程度のいい加減な結着をつけたつもりのことであつたが彼には巧く説明できなかつた。その時は原作を持出したりもしてしまつたのだけど、これもあまり良くなかつた。それで改めて色々考へて、映畫の内容だけで納得できる筋道が見えてきた。讀む人など一人も居なくたつて構はないが、自分の爲に認めておく。

随分前に、「この世界の片隅に」は「居場所」の物語であると書いた。しかしこんなのは「ガルパンは戰車道の物語である」と言つてゐるのと變らない。間違つてはゐないが見たままを述ベてゐるだけである。居場所を語る爲に重要なものが別にあつて、それを敢へて言葉で表はすなら「夢」と「現實」だ。この樣に表はしてしまふと途轍もなく陳腐にも思へるが、他にいい言葉も見つからないのでこの切り口で物語を見返さう。

すずさんにとつての夢

その一
先づ最初のエピソード。すずさんは自ら體驗した筈のちよつとした事件をすみちやんに見せる爲の繪物語にしながらかう振返る。「あの日のことも晝間見た夢ぢやつたんに違ひない」。
その二
續いて干潟を歩いて渡るエピソード。すずさんは晝寝の途中で目を覺まし、寝惚けた眼で座敷童に會ふ。その不思議な體驗も繪物語の一枚となる。
その三
長じてすずさんは呉に嫁入りすることになる。妹のすみちやんが「あんまり近いんは夢がないけえ」といつて箸を長く持ち直すのにツッコミを入れつつ、自らが夢にも見たこともない様な遠くの街へ嫁ぐことになる。「うちやあそんとにボーッとしとつたんぢやらうか、いつの間にかうなつてしもうたんぢやらうか」と心の内で呟きながら。
その四
婚家で祝言を済ませ、初夜を乘越え、家事や隣組の付合ひに忙殺され、婚家から戻つてきた義姉に半ばいびられる様に追出されて廣島の生家に里歸りした晩、うたた寝を母に起こされたすずさんは「焦つたあ、呉へ嫁に行つた夢を見とつた」と言つて家族をズッコケさせる。

序盤のここまでに、執拗なまでに強調されてゐるのが「夢」といふ言葉であり、自らの體驗をも「夢」で片付けてしまひがちなすずさんといふ女性の性向である。それは單に「繪を描くのが好きで夢見がちな少女である浦野すず」などといつたありがちな設定上のキャラ付けに留まらない、すずさんの持つ世界觀をも表してゐる。
この「呉へ嫁に行つた夢を見とつた」といふのをただのギャグとして流すのもよいが、そも幼少時の周作少年との邂逅さへもすずさんにとつては「夢ぢやつたんに違ひない」のであり、すずさんの目に映る周作さんも、寝泊まりする家も、どこまでも「夢」なのだ。すずさんはありもしないことを夢想するのではなく、自分を取巻く状況が夢であると捉へてゐる。それを象徴するのが中盤の三つのシーン、リンさんとの出遭ひと周作さんとのデート、そして哲と過す納屋での一夜である。

夢から覺めるすずさん

買物歸りに道に迷つて遊廓に足を踏入れたすずさんは、途方に暮れてゐるところに聲を掛けてきたリンさんに「ここは龍宮城かなんかかね?」と問ひ掛ける。その日の體驗をかひつまんで話した周作さんに誘はれてデートに連出された日の晩、橋の上ですずさんは「知つとる人に會うたら夢から覺めるとでも考へとるんぢやらうか、うちやあ」と語り、その夢が「今覺めるんは面白うない」と心の内を覗かせる。
ここがかなり重要で、すずさんにとつては未だに呉での暮しは「いつか覺めるであらう夢の中」なのである。周作さんはそのすずさんの胸の内を聞き、「過ぎた事、選ばんかった道、みな覺めて終つた夢と變らんな」と呼應する。一見、ここで二人の會話は通じ合つたかの樣に見える。しかしそれは落し穴だ。
二人の距離が縮まり、その結晶として二人の間に子が出來たかもしれないといふ予感が幻と消えたのと同じくして、ここで意見の一致をみたと思つた二人の互ひに對する思ひも、實は決定的にすれ違つてゐたことが判る。水原哲の來訪によつて。
デートの時にすずさんは「水兵さんになつた昔馴染」に出遭ふことを恐れてみせた。その水兵が向うから乘込んできた。すずさんは哲に對して、子供の頃にもとつたことのない様な亂暴な態度で接した。それが周作さんの目にはどう映つたかといへば、すずさんの言葉の通り、夢から覺めて、現實に戻つたすずさんの姿がそこに在つた樣にしか見えなかつたらう。龍宮城を去り、玉手箱を開けて變り果てたすずさんを見た、そんな思ひを抱いたのではないか。
だから周作さんはすずさんをすずさんの現實に返さうと思つたのだ。自分などこの人の夢の缺片にすぎないのだから。デートの日の遣り取りこそが、二人の間の溝そのものだつたのだ。戰地に赴くこともないナイーブな文官の周作さんはさういふ風に感じてしまつた。姉の爲に防空壕の柱の使ひ方にまで氣を遣ふ彼の優しさが、ここでは最惡な方向に働いてしまつた。
では一方のすずさんの方はどうか。自分を夢から覺ます筈の水原哲に迫られて、確かに目ははつきりと覺めたのだ。實母に頰を抓られても覺めなかつた長い夢が、今ここで。「うちはかういふ日を待ちよつた氣がする。かうしてあんたが來てくれて、こんなに傍に居つてのに、うちは、ああ、ほんまに、うちはあん人に腹が立つて仕方がない!」すずさんが夢と思つてゐたもの、置かれた現實、それらがやつとすずさんの中で定まつたのだ。

夢と信じた現實と、現實にならなかつた夢

さて、氣の毒なのは水原哲である。兵學校に入つた兄が事故死して、その代りの當り前として海軍の志願兵となり、幼馴染のすずさんに告白しそびれて、乘艦青葉と共に死線を潜り拔け、這々の體で母港に歸り、不本意な嫁入りをしたであらうすずさんを取戻すべく入湯上陸にかこつけて來てみれば、その自分の行動がきつかけですずさんの夢を覺ましてしまひ、はつきりと振られてしまふのだから。
地に足のつかない夢であつた筈の呉での嫁入り生活こそが現實であったと、すずさんの中での認識が反轉したのが納屋での顚末であつた。しかし勿論、すずさんだつてそんなことは本當は分つてゐた筈で、これまた陳腐な表現だが現實逃避をしてゐたにすぎない。ただ、それが「理想としての夢に逃げる」のではなく「現實を夢だと思ふ」といふ處が普通と違つてゐて、周作さんはそこを取違へたのか、逆に正確に見拔いたのか、ともかくすずさんを「現實」に返さうとした。しかし今やそれが「現實」ではなかつたことを悟つたすずさんは、その周作さんの身勝手な取違へに對して猛烈に腹を立てたのだろう。
その後、鬼イちやんの合同葬の歸りの汽車の中で始まつた他愛のない喧嘩によつてすずさんの現實は地に足がついた、樣に見えた。しかしそれは後の出來事によつて再び大きく搖らぐことになる。

六月二十二日から八月十五日まで

物語の様相が變つた後のこと。
何が夢で何が現實か。自らの生きる意味すら見失ひ、呉と廣島のどちらが夢であるかの區別もできず、戰闘機が飛び交ふ中に飛んでゐられる筈もない鷺の姿を追ひ、義姉の徑子さんの言葉に絆されてやつと呉を居場所と定め、幻の鷺を見送つた先の山の向うに不氣味な雲が立上る樣を眺め、その下へ果敢にも救援に向ふ隣組の人達の姿に自らを奮ひ立たせ、今更の様に臨戰體制となる。六月二十二日の出來事からたつた五十日程の間の事である。
竝の神經でも度重なる空襲に衰弱してもをかしくはない。まして身の周りに大きすぎる喪失のあつたすずさんが、正氣で居られる訣もない。電單を丸めて伸ばして落し紙を作りながら「何でも使うて暮し續けるんがうちらの戰ひですけえ」と口にしたすずさんは、鷺を追うた日に比べれば落着いて見えても、まだ静かに歪んだままなのだ。それは安易に「戰時體制に丸め込まれた」といふのとは斷じて違ふ。假令監督がさう話してゐたとしても違ふ。
これを「戰時中の人は皆さういふものなんだよ」なんて一般論で片付けてしまふのなら、その日までの五十日間のすずさんの身に起きたことは何だつたのかといふ話で、それならばすずさんなど居ても居なくても關係なくて、それでは駄目なのだ。この映畫はすずさんの目を通して見た終戰前後の時代を描いたドキュメンタリー「ではない」。その時代に生きたかもしれないすずさんといふ一人の女性を描いた作品なのだから。

現實のすずさん

六月二十二日の空襲を機に、夢から覺めてゐた筈のすずさんは自我を失ふ。最早夢も現實も綯ひ交ぜとなり、生きてゐるのか生かされてゐるのがも解らず、ただ死んでゐないだけといふ心持ちのまま、それでも正氣に縋つて焼夷弾を消し止めて、それすらも「何が良かつたんかさつぱり分らん」と言ふ程に壞れて歪んでゐる。これ程の精神状態を指して、一般論で「當時の女性」を論ずることに意味があるだらうか。世で語られてゐる樣に玉音放送を聞いたすずさんの激昴と畑での慟哭について、合理的な説明が出來るとでもいふのだらうか。自分にはさうとは思はれない。敢へて言ふなら、納屋で見せた周作さんへの怒りと「戦爭を終らせた者」に對して湧き起つた怒りが同じ處に根差してゐたのだらう、といふことくらゐである。夢と現實を取り違へてゐたことと、身勝手に自分にさうさせたことへの怒り。夢を夢と思つたまま死にたかつたといふ嘆き。すずさんは映畫のカメラ役ではない。映畫で描かれた時代の代表者でもない。超然と透徹した目で時代を觀察してゐる訣でもない。市井に生きる一人の人間が夢と現實の間を激しく搖さぶられるその樣が描かれてゐるのだ。
戰後となり、進駐軍が上陸した頃にはすずさんの中で夢と現實の折合ひも再び(初めて?)つけられ、生きて目の前に立つ哲の姿を夢の側へと押し込める樣にして物語は終幕へと向ふ。
最後に見たバケモンの姿が夢なのかどうかといふ處でうまく煙に巻かれてしまふが、その後の周作さんとの遣り取りで「呉は自分で選んだ居場所ですけえ」と語るすずさんにとつて、もはや呉は覺めたら面白うない夢でも龍宮城でもない。かつて夢と思つた街は紛れもない現實としてすずさんに迎へられるのである。

消された「現實」

さて長々と「夢と現實」について書いた。表立つて言葉にされる「居場所」そのものについて、すずさんがどう捉へてゐたかを窺ひ知るにはこの切り口しかないのではないかといふのが、十數回作品を觀賞した後に得た自分なりの筋道である。
ただ一つだけ、この切り口で觀た時に不自然な點がこの映畫にはある。「夢」と「現實」が對になつて具體的に語られてゐる筈のデートの晩の橋の上での遣り取りで、周作さんはかう言つてゐる筈なのだ。「すずさん、あんたを選んだんは儂にとつて最良の現實ぢや」と。原作漫畫での周作さんはさう言つてゐる。映畫ではこれが「最良の選擇ぢや」に變更された。その爲に、先に書いたすずさんと周作さんそれぞれの夢と現實の取り違へについて、随分と見通しが惡くなつてしまつた。
監督が何故ここを變へることにしたのか。他の何よりも、自分にとつてはこの改變が最も重要かつ不可解である。しかし不可解であるが故に、この讀取り方は自分だけのものとしておくことが出來るのだと思ふとそれはそれでゼイタクな氣がするのである。
この世界の片隅に」について、長いこと色々考へて來たけど、ここらで一區切りにしようと思ふ。心の片隅にはもうすずさんが棲みついてしまつてゐるのだし、これを最後に忘れるとか言及しないとかではないけれども、思ひ殘すことのない程度には書きたいことを書いてしまつた。