前にもツイートしたけど、自動着色コンテンツが広まりすぎると、マシンラーニングの素材にそれが紛れ込んで精度が下がる(というか、推定で付けた色が反復学習されて「事実」として認識されてしまう)事態が起きると思う。もう既にその兆候は見えているし(´・ω・`) https://t.co/UVY6CFvLFS
— ウチューじん・ささき (@uchujin17) 2018年5月26日
これに同意のツイートをしたら、自動着色の研究者の方からリプライが來た。
いま僕らが使わせていただいている、早稲田チームのシステムはそういう仕様になってます。で、意外とみなさん、それを試したことがあると思います。 https://t.co/sok8gcDxtT
— 渡邉英徳 (@hwtnv) 2018年5月28日
たいていは、このくらい違います。ほとんど見分けがつかないときもあります。 pic.twitter.com/eJJ6l7zefB
— 渡邉英徳 (@hwtnv) 2018年5月28日
事實確認としては理解した。しかし。
いまは何かと議論を呼ぶ「自動色付け」も、Googleフォトに実装されたのちは「フィルタの一つ」くらいの普遍性を帯びるのかも知れません。考えさせられるのはいまだけ、なのかも。 https://t.co/VlZDufH5dZ
— 渡邉英徳 (@hwtnv) 2018年5月28日
「考へさせられるのは今だけ」といふのは首肯し難い。技術の發展自體を否定はしないけれども、事實と異なる結果を徒らに量産することの是非について考へることをやめるべき時は決して來ない。自己增殖するAIの成果物による多數決で事實が覆る樣なことはあつてはならない。
これを受けて別の方からの意見。
この場合の「事実」とはどういう意味になるのだろうか、とふと思いました。というのも私は色弱で、多くの皆さんとそもそも見えている世界の色は、少し違います。だから私にとっての目前の「事実」も他の人の「事実」と違うことになります。 https://t.co/7J5jMEABOY
— take-0 スーパーロングラン上映中「この世界の片隅に」ヨロピク (@take090059745) 2018年5月28日
これについては、客觀的な事實も受け手によつて印象が異なる、といふ話だと思ふ。色を知覺できなくとも、「金屏風の前で挨拶した」といふ表現と「青屏風の前で挨拶した」といふ表現の間に單なる色情報以外の意味が込められることは理解され得ると思ふ。冩眞によつて「事實」の方が變へられると、文化的背景にまで影響を及ぼしかねないといふことだ。
現状の「ニュ一ラルネットワークによる自動色付け」が目指してゐるのは「昔の白黒冩眞に着色したら樂しいよ」なんて無邪氣な遊びではない。本當に目指してゐるのは「冩眞からの情報の抽出」だらう。着色の爲の情報として、景色の中にあるもの、冩つた人の數、其々の性別、年齢、服装、そして勿論個人名までも。SNSのデータベースと繋がれば、一枚の冩眞からあらゆる個人情報を拔き取れる樣になるまで技術的にはあと半歩もないだらう。遅かれ早かれさういふ未來は望まなくともやつてくる。