大和但馬屋日記

はてなダイアリーからの移行中

時間を描くといふこと

今日も茶屋まで走つて映畫を觀る。

きんいろモザイク pretty days」。TVで二期までやつたアニメの新作OVAのブローアップ上映。今時そんな言ひ方はしないか。フィルムを引伸す訣でもなし。あくまでTVクオリティの畫面ではあつたが、これが豫想外に良かつた。あややを話の中心に据ゑて、日本人側三人の高校受驗の話をメインに進めて英國人二人は完全に脇役。これが意外にも良かつたのだつた。まあこれがツボに入るのは自分がヲッサンだからかもなーといふ氣もしつつ、ちよつとホロッと來てしまつたのだから仕方がない。終盤の舞臺劇のシーンがTV第一期最終囘のやうな展開を期待したのにgdgdだつたのは殘念だが、ここをちやんとやるには千八百圓取れる映畫として作らにやならんのだらうな。さういふのを觀たくはあったがまあそれはゼイタクといふもので。

引續き同じ箱で「この世界の片隅に」久し振りのULTIRA上映。片渕須直監督の舞臺挨拶が行はれるといふので、少なくとも通路に挾まれた中央のブロックは珍しく満席に近い盛況振りであつた。しかしULTIRAに氣壓されて萎縮してしまふのか、あるいは映畫馴れしすぎた人ばかりなのか、そして何よりリピーターが殆どであるせゐでもあるのか、ともかくもそんな感じで映畫に對するリアクションは薄く、小さい箱でよく起こる笑ひもすすり泣きも窺ふことはできなかつた。まあ自分も外から判る反應は見せない方だと思ふが、先刻の「きんモザ」では不覺にも涙を拭いてしまつたものね。

久々のULTIRAだし觀賞は九度目なので今囘は敢へてすずさんの一擧手一投足からは耳目を逸らし、すずさんを取囲むすずさんが見聞きしてゐる筈のものごとに注意を拂つて觀た。嫁入りの日の呉の驛頭の喧騒。休山の方の砲臺の教練の音に氣を取られがちだが、行交ふ乘物の音が自轉車ーつに至るまできつちりつけられてゐる。喧騒ばかりでなく、鹽辛蜻蛉や赤蜻蛉が飛べばその羽音まで聞える。

音の演出の壓巻はすずさんを見舞に来たすみちやんをすずさんが街まで見送る場面。破裂した水道管に栓を打込む作業を行ふ一組の男性の姿が見えるが、その槌音はすみちやんと別れるまでの間ずつと一定のリズムで續いてゐて、作業する姿が畫面から外れてまた戻つた時にもきちんとリズムに合はせたまま動いてゐる。當り前のことが當り前に描かれてゐるだけだが、そんなことをするアニメがあるか? 自分の知る限り、かういふ時はオフの時にガヤで台詞を入れて作業を中斷したりして、無理に何カットも跨いでまで繪と音を繋げたりはしないものではないのか。音樂合せの演出と同レベルのことをこともなげに日常として描いてゐるのが恐ろしい。

繪と音については、それでもやはり遠方の砲撃の音が繪と同時に鳴るといふ映像のセオリーを外しはしてゐないが、一箇所だけ明確に距離感を感じさせる演出を取入れてゐる。三月十九日の、すずさんが初めて空襲の災禍に見舞はれる場面。ここで遠くから發砲される音、砲彈が破裂する音なども全て基本的に繪と音が完全に同期してゐる。さうした上で、圓太郎さんが鐵兜に「被彈」し、廣工廠唱歌を囗遊みつつ地面に突伏したところで、遙か遠方の呉灣上に浮ぶ戰艦榛名が主砲から三式彈を發射した時だけ、戰艦主砲の威力を示す衝撃波が數秒遅れて北條家のガラス障子をガタガタ振はせる描冩を挾んでゐるのである。監督としては「本當はこのくらゐタイムラグがあるんだよ」といふ「事實」を示さずには居られなかつたのだらう。その上で、主砲の發射音と三式彈の破裂音は繪と同時にも鳴らしてゐる。それが映像としての「眞實」だからである。

この衝撃波の遅れの描冩がそのまま八月六日の原爆の描冩へと繋がるのは言ふまでもない。そこで驚くベきは光と音のタイムラグの表現ががすずさんにとつての重大な選擇の場面でもあり、即ち原作漫畫の時點でタイムラグがドラマの要素として折込まれてゐたといふことである。漫畫で時間を主體的に扱ふ場合、そこには得てしてわざとらしく時間を強調して引伸す様な描冩がなされたり、時間を象徴する事物、あるいは動作が入念に描かれる。映畫だとスローモーションになつたり、一見本筋と直接關らない何かの風景を挾んだりして、觀客の注意をそちらに向けようとする。ところが、このシーンでは徑子さんとすずさんの二人の静かな會話によつて時間が進み、互ひの關係にほんの僅かな變化が起らうとしてゐるだけである。その僅かながらも重要な變化の瞹間に「ピカ」が挾まり、すずさんの心が定まつたのと同時に「ドン」が來る。廣島市から呉の距離は凡そ二十キロで、光が見えてから音が傳はるのに五十秒程掛かつたといふ。それを實時間として描いてみせたのである、映像ではなく漫畫で。こうの史代先生の筆力。こんなの「漫勉」でも解き明かせまいよ。

アニメでこれを再現すること自體はきちんと丁寧に演出すれば問題ない筈なのだけれど、それでもアニメでは「ピカ」の瞬間に低くくぐもつた轟音を合せてゐる。合せなくてはならないのである。映像である以上、「光つた理由となる音」は必要なのだ。三月十九日の空襲場面での榛名の砲撃描冩については、おそらくその後に出てくる八月六日の重要なシーンを踏まへて、その前哨の意味を込めて意圖的に挿入されたのだらう。音の傳はる速さの違ひが、どちらも北條家の家屋を搖らすことで表現されてゐることからも明らかであると思ふ。

そんなことを感じながら觀ると面白くて仕方ないのだが、大變に疲れるのも正直なところなので、手前に「きんモザ」を觀ておいて良かつた。アニメなんてgdgdくらゐで丁度いい。程良く疲れた頭で監督挨拶の時間を迎へる。

すずさんはこまいなう。監督さんはもつとこまいなう。

片渕監督の話は「北條家が井戸に頼つてゐたのは何故か」「すずさんを襲つた境遇の意味」「終戰の日に灯る家々の窓明りについての實話」等々。すずさんに關する話は、原作から端折つた部分を拔きに物語を成立させる爲のロジックの説明といふ感じで聞いた。

スクリーンの大きさに少し狼狽した風の監督の言葉に、一年前の「ガルパン」以來のULTIRAフリークとしてはまるで戰艦大和をすずさんに誇つてみせた周作さんと同じ氣持になつたのであつた。