大和但馬屋日記

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映像と遠くで鳴る音

この世界の片隅に」について「遠くの音が遅れて聞こえず繪と同時に鳴つてゐる矛盾を誰も指摘しないが、本當にリアリティを感じながら觀てゐるのか」といふ疑問を提してゐる人が居る。車輪の再發明をしたがる人はどこにでも居るものだが、ちやんと考へたことがない人も多からうと思ふので改めて書く。前に書いたd:id:yms-zun:20170121の繰返しだが映像的な觀點からもう一度捉へ直してみよう。

音といふのは、思つてゐるより「遅い」。狹い風呂の中でもあれだけエコーが掛つて聞こえるのだからそれだけ音の速度は遅く、また人の知覺はそれを感じるに十分すぎるほど鋭敏であるといふ事に他ならない。

空氣中を傳はる音の速さは條件によつて多少變化するが、假に時速千二百キロメートル強といふ値を採用しよう。今囘の話に丁度當て嵌め易い。分速に直せば二十キロで、廣島から呉までの凡その直線距離にあたる。原爆の「ピカ」から「ドン」までに一分弱の時間が掛つたといふのもここから導かれる。この映畫でのその時間の描き方については前に書いた。

次に、すずさんが三月十九日の「空襲」で見た風景。北條家のあるとされる地點から呉の港までは凡そ二キロ程離れてゐる。分速二十キロで傳はる音が二キロ進むのには六秒掛るといふことだ。海上の軍艦ともなると家から三キロは離れてゐるから、軍艦が撃つた大砲の音は發射の九秒後にやうやく聞えるといふことになる。リアルさを追求するとさうなるのだ。

すずさんが見た最初の砲撃、正面方向の鉢巻山山頂の砲臺はすずさんから凡そ二・五キロ程離れた處にある。眞面目にやると砲撃の爆煙が見えてから音が届くまでに七秒以上は掛る計算だ。映畫の尺に當て嵌めると、すずさんが正面に煙を見てからカットが二囘變つて「山の向うから飛行機の大群が飛んでくる手描き風の一枚の繪」かその次のカットあたりでやつと最初の大砲の音が鳴るといふことになる。勿論、觀客にはもはやその音が何の音であるかは理解できない。

映像の原則としては、カットを切換へた時、それが實時間に沿つた經過を表してゐるといふ保証もない。同時に起きてゐることを二つのカットに分けてゐるのかもしれないし、逆にカットの間に切り詰められた時間があるかもしれない。何よりあの飛行機の大群の繪はそれ自體が靜止してゐるから、實時間からは完全に切離されてゐる。随つて、最初の砲撃の爆煙に合せて鳴らされなかつた音は、鳴らされるべきタイミングを永遠に失つてしまふのである。

そもそも、我々一般人が「遠くで鳴つた音」の遅れを認識するのはどういつた場合だらうか。まづ誰でも思ひ付くのは打上げ花火、次に雷、あとは運動會の徒競走のスターターくらゐだらう。花火やスターターは皆がそれに注目してゐるから音の遅れがよく判る。雷の稲光は大變に眩しいので嫌でも目に入る。どちらの場合も先に目の情報に意識が向いてゐるから「後から音がついてくる」ことを明確に認識できるのである。その花火にしても運動會にしても、觀客から音源の距離は精々一キロ以内であらう。運動場ならば高々百メ一トル程度でその場合の音の遅れは〇・三秒位となる。

一キロ先の打上げ花火ならば音の遅れは三秒程度で、それよりも遠いと音量が減衰してしまひ、大した音は聞えない。我々一般人の感じる「リアルな音の遅れ」とは長くても三秒、殆どの場合一秒未満の話であるといへる。それ以上の遅れである場合、そもそも音の発生源を目で見ることが有得ないといつても良い。一キロ先で起きてゐることを人が一々見てゐるだらうか? 一キロ先で起きてゐることの音が聞えるだらうか? 遠くの音が聞えた時、その音の元となる事象は目で見る前に終つてゐるのではないか?

つまり、「遠くの音が遅れて聞えること」に對して、我々はリアリティを語れる程の基準を体感として共有してはゐないのだ。「映畫の音が遅れて聞こえないのはをかしい」と簡單に言ふけれども、では遠くの砲撃の音が〇・一秒でも遅れて聞こえてきたら滿足なのだらうか。きつとさうなのだらう。本當は三秒とか五秒とか十秒とか、さういふ單位で遅れて聞こえてこなくてはとてもリアルとは言へないのに。

三月十九日のシーンで、五秒以上の長い尺が使はれてゐるのはすずさんが呆然と空を見上げ、「ああ、今ここに繪具があつたら…」と内心で呟くカットくらゐのものである。それ以外の殆どを二秒以内の短いカットで畳み掛けることで戰闘の緊迫感、死と隣り合せの恐怖といつたものを十分に演出してゐる。音源から音が届くのを待つ爲だけに五秒も十秒も時間を費してゐては間伸びするばかりで、そんなことをして得られる效果など何もない。カット割などを行はず、どこかの山頂の定點カメラで撮つた戰闘の一部始終を收めた記録映像といふ體にでもしない限り「遠くの音を遅らせて鳴らす」といふことには何の意味もないのだ。

實冩映像で、繪と音を同時に録る場合には遠くの音が遅れて入ることがある。その場合は編集で音のトラックを早めて同時に鳴る様「修正」するのが暜通だ。それが映像といふもので、距離に基く時間差そのものに意味を持たせて意圖的に演出する必要がない限りは、繪と音は同時に鳴らさなければならないのである。

意圖的な距離の演出についてはd:id:yms-zun:20170121で觸れた通りだが、敢へてくどい説明を付加へるなら、圓太郎さんが晴美ちやんに「敵は何馬力なん」と問はれたのに應へずグッタリ倒れた直後に遠くの戰艦が主砲を放ち、その「音」が北條家の窓を搖らした箇所で、監督は「本當の距離感」を何とかして演出しようとしたことが窺へる。この部分を繪コンテ集で確認すると、コンテの段階では戰艦が主砲を放つた後で圓太郎さんが崩れ落ち、その後で北條家の窓が搖れることになつてゐる。監督はここに十秒近い實時間の經過を取入れようと試みたのだ。

しかし本編映像では前述の通りに順序が入換へられて、砲撃のすぐ次のカットで窓がガタガタと揺れることになつた。時間にして二秒足らず、とてもリアルな距離を表してはゐない。この表現ですら、おそらく觀た人の大半は「戰艦の主砲が家の窓を搖らした」といふ風に正しく認識できなかつたかもしれない、その位ギリギリの演出だつた。まして間に別のショッキングな描冩まで挾まれば、我々の誰一人理解できない映像にしかならなかつただらう。そんな理解できない映像を見たところで「遠くの音が遅れて聞こえないのは矛盾してゐる」などと指摘して悦に入つてゐる樣な人がそれを正しく評價などできよう筈もないのだ。實際、ここで擧げた演出に気付いてすらゐないのだから。

映畫とは百分の四秒單位で物の動きや音のタイミングについてコントロールする藝術なのだから、その演出において「遠くの音をどうするか」について檢討されたことがない訣がないし、全ては明確な意圖を以てさうなつてゐるものと理解すべし。