大和但馬屋日記

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F1やつてない時は「この世界の片隅に」のことしか考へてないくらゐの日常なので「この世界の片隅に」のことしか書きません。
で、「この世界の片隅に」の繪コンテ集を讀んでゐると、あちこちにカメラの移動や構圖についての説明が添へられてゐる。コンテの段階ではカメラ移動(所謂PANやT.B.)で描冩するとした處を、レイアウト時に複數のカットに分けてカメラは固定したといつた具合だ。
また、レイアウトの段階でコンテの構圖よりも全般に画面枠を一回り大きく擴げたことも記されてゐる。これはカメラの畫角を大きくした、といふことに相當する。さうすることで畫面の中の人物像は一囘り小さく冩る。映像言語としてはより客觀的、觀察的となり、構圖そのものが生み出すドラマ性は薄くなる。アニメーション作畫としては常に全身像を描く必要があるため、作業難易度と仕事量が跳上る。敢てさうした理由を推察するに、第一義としては何よりこうの史代さんの漫畫の持つ獨特の雰囲氣を再現する爲ではあらうが、もう一つ確實に言へるのはこれが映畫であるといふこと。
TVアニメでアップが多用されがちなのは描くものを減らして作畫コストを抑へるといふ都合と共に、アップにしても問題ないといふ物理的な事情も關係してゐる。TVの畫面は比較的小さいから、キャラクターの顔が畫面一杯に擴がつてゐてもさほど問題にならない。その上で作畫コストは抑へられ、心理描冩は強調されるのだから、アップの構圖を敢へて使はない手はないのだ。あまりに安易に多用すると手拔きにしか見えないけれど。
かといつてTVと同じ感覺でレイアウトを取ると映畫ではまづいことになる。スクリーン一杯の顔のアップは威圧感が出るし、描き込みが薄いとスカスカになる。惡い見本でいふと、「ガルパン」の作戰會議のシーンが正にさうだ。尤もあのシーンは「我の強い各校代表が狹いテントの中で勝手なことを言ひ合つてゐる」といふコメディシーンなのでわざとさうしてゐるから、失敗してゐる訣ではない。だからこそそれが多用されてゐる訣でもない。
この世界の片隅に」においては、意圖的に引きの構圖を徹底してゐる。それは今作が映畫だから、映畫の力を信じてゐるからだ。だから、この作品は映畫館で觀なくてはつまらない。いづれ圓盤や配信を通じて家庭で觀られる日も來よう。それはそれで嬉しいことだが、どうしてもすずさん達の豊かな仕草が小さく小さく見えてしまふのは避けられない。まづは今、觀られる内に劇場で觀ておくに越したことはない。
では何故、コンテの段階では意圖した構圖で描かれなかつたのかといふと、それあ勿論コンテ用紙が小さいからだと思はれる。コンテに必要なのは畫面にあるべき要素を正しく示しつつ適切な芝居を説明することだから、構圖を最優先してキャラを小さく描いてばかりはゐられない。それと、やつぱり、小さいコマに「これで十分」と思つて描いても、レイアウトに冩してみると「寄りすぎだ」と判斷することも多いのだらう。
などと色々考へる餘地を與へてくれて、この繪コンテ集は大變面白く讀める。