私を端から見る人にとつて、私は比較的無邪気に理想主義的な極論を言ふ人間に見える様だ。まあそのことを否定はすまい。勿論私とて仮想人格などではない厳しい現実の中に生きる人間なので、現実を知らない訣ではない。むしろ現実に押潰される様に日々を生きてゐる。
しかし、だからこそ、理想と現実のどちらかを求めるならば躊躇ひなく理想論を選ぶ。少なくとも現実論に逃げ込みたくはない。現実などいづれ変る。五年前の現実は今のそれとは異る。将来もまた然りだ。ならば、将来直面すべき「現実」は今の「理想」的なものに近付いてゐるべきだらう。今の「現実」を気に掛けるあまり将来までグダグダにされては、それこそ堪つたものではない。
その場凌ぎの現実主義が自家中毒的に現実をややこしくする、そんな例は枚挙に暇がない。国語改革がさうだし、錯綜する文字コードがさうだし、CSSのIEハックがさうだ。スペースシャトルが爆発したのだつて究極的にはそれが原因だと松浦晋也が言つてゐる。
極論に歪んだ私の目からは「現実が」「現実が」と好んで言ふ人達が現実をさらにややこしくしようとしてゐる様に見える。ならば私はさういふことに身体はともかく心まで与したくはない。これはたぶん、死ぬまで直らんだらう。
だからといつて理想に向けて邁進できる程立派な人間でもない。せめて自分の持つ理想が他者にとつても悪い話でないことを願ふばかりだ。