大和但馬屋日記

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「子供の美術」と題した彫刻家氏の聲明文がTwitterで話題になつてゐる。日く、「圖畫工作の時間は上手に繪を描いたり、ものを作つたりするのが目當てではありません」といふ書出しに始まつて感性を育むことの重要性を説く一枚の檄文の態で、まあ、如何にも一般受けする内容だとは思ふ。皆に等しく正しく感性を育むことができるといふ前提の上では特に異を挾むのも野暮だと思ふが、かういふとすぐに「正しいとは何だ」と言つて味噌と糞の區別をつけることすら忌避する樣な因縁が一緒について囘るのでどうにも首肯しかねる。
正しいといふのは歪んでゐないとか眞直ぐであるといふことであり、正しい感性を育てるとは物の良し惡しを知るといふことでもある。當然、教へる側にも最低限の感性が備はつてゐることが要求される。多様な價値觀を受容れることも必要となる。正直、教育現場には荷が重いことだと思ふ。しかし、それはやらなくてはならないことであらう。そこを拔きにして、「圖畫工作の目指すところは技術の巧拙ではない」とだけ受止めて持て囃す様ではどうにも先は暗い。
敢へていふならそもそもの話、子供にとつては自分の描きたいものを思ひ通りに出力する技術こそが必要なのだ。道具や畫材を上手く使へる技術を知らぬばかりに、思つたものを生み出せず繪や工作を樂しいとも感じられずに嫌ひになる、といふケースだつて少なくない。技術の習得によつて、上手くなることが樂しいと思へるからこそ續けられるのは當り前のことだ。その可能性を摘取つてはいけない。
さういつたことを棄ておいて紙一枚の檄文一つで教育を論じる様な無責任さでいいわけがなからう。