「どいた、どいた」というのが、一貫して理解できる種類のものかというとちょっとあやしい気がする。語源的に少し違うんじゃないだろうか。「どいたらむ」とかじゃないかという気がする。でもこれは根拠なし。
(追記。ああ、そうか。これも古典語でも「たり」だな。思い出した。「さあ、並んだり並んだり!」)
完了形、あるいは過去形による表現が現在、あるいは未来の有り様を規定する話。
英語の人が依頼や軽い命令の意味で相手に「サンキュー」と言ふのと似た様なもので、ある意味ぶぶ潰けと似た発想なのではないかと思つた。などとここで「〜と思つた」なんて書いたけれども、これの使ひ方に関するじょうのさんの考察(id:jouno:20050904:1125831039)は面白くもあり、「さうかな?」と思ふこともあり。
焚書官さん流に「テキストの中の自分と、それを書いた自分とは必ずしも同一ではない」といふ枠組を仮に受容れるならば、「〜だと思つた」といふ表現は必ずしも不自然でないし、取立てて不誠実な態度であるとも言へない様に思ふ。読者にとつて、書いた人が「今まさにこの瞬間」そのことについてどう考へてゐるかは測り知れないし、極論すれば関係がない。「〜だと思つた」といふ書き方を用ゐた不誠実な態度がもし本当にあつたとしても、それは態度が露見した時(後で無責任に前言を翻した時など)に問はれるべき事柄なのではないだらうか。
「〜だと思ひました」といふ書き方に対して「で、いまどう思ってるんだよ!」とツッコミを入れるのが有りならば、「〜だと思ふ」「〜だと思つてゐる」といふ書き方にも同じツッコミが入れられる。例へばそれが一年前に書かれた文章ならば、今現在の「書いた人」が同じ思ひを継続して抱いてゐるかどうかは分らないし、だからといつて過去の文章のすべてに「その後の経過」を記す訣にもいかない。であれば、それを書く時点での意見を、継続的に存在する「自分」と切放すために完了形で書くのは自然に有得ることなのではないか。そんな訣で、ということは、「た」というのは、「済み」のはんこをぽんと押すことなのかもしれない。
といふ譬へは秀逸だとおも‥‥うーむ‥‥思ひました。
- 2005年09月07日 funaki_naoto 『[ことば]』
- 2005年09月07日 nekoprotocol 『[( ´・ω・`)]「と思いました」文体使いがちだおれもうちょっと自覚しよう』