昨日の件、記法の正統性を説かれたから「これこそが正統。本来誰もが身につけているべきリテラシーである」という復古運動だと思ってた。その場合は正統性を主張するだけの根拠、表面的な記法だけでなく文法語法を使いこなせる技能教養、日常づかいする習慣、その啓蒙活動は必須だと思ってたのだけど。
— 武井博則 (@cadtki) 2018年5月26日
他人に正統性を主張するけどその記法を使ってるかどうかはどうでもいい、ツールで補っても別段構わないというのであれば、やっぱりそれはごっこ遊び、趣味の域を出ないものなのでは……その辺り特に肯定も否定もしてなかったんで、そんなものなのかと思った次第です。
— 武井博則 (@cadtki) 2018年5月26日
「「読まれない記法を使うのは愚か」とアンチ派がバカにする」「迎合したら負け」みたいな話も突然出てきて、ああこれすっごい既視感あるとも。何とは言いませんが。
— 武井博則 (@cadtki) 2018年5月26日
知りもしないことに勝手に基準を設けて、それに当て嵌つてゐないからダメだと極めつける。確かにああこれすつごい既視感ある。世の中のありとあらゆるマイノリティに對して、自分の想像する「可哀想」の圖式に当て嵌つてゐなければ存在を認めてやらないといふいつものアレ。この人、プロフィールに「理不尽絶対殺すマン」などと書いてるけど、自分が他者に押し付ける理不盡は絶對に殺せないマンである。ツールで補ったらごつこ遊びといふならば世の中遍くごつこ遊びでしかない。それは人間の否定である。
理解できないものに出遭つた時に、理解できぬが故に拒絶するのは仕方のないことだ。理解しようとして挫折するのも仕方のないことだ。理解するのは難しいことだから。しかし、理解する氣など端から無い癖に手前勝手な基準で「どうせ〇〇であるに違ひない」と自分の枠の中で「理解」したつもりになり、しかもそれを投げつけるのは下衆でしかない。