大和但馬屋日記

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兩親と觀る「この世界の片隅に」

兩親を伴つて「この世界の片隅に」を觀に行つた。父は勿論澁つてゐたが、「もう席は取つたから」といふと案外簡單に折れてくれた。朝一の上映囘だがほぼ滿席。茶屋だとかうは行かない。上映が始まつたら父は「何や、アニメか」と呟いて母が「さう」と頷いたらその後は黙つて觀てゐた。

小さい箱で滿席なせゐか、今までで一番客席の反應をダイレクトに味はふことができた。特に自分の席から二つほど離れた席の年を召した御婦人がいい感じに笑つてくれてゐて、それだけに例のシーンでは「あッ…!」と聲を上げたのが一番のクライマックス。うちの母は人前でさういふ反應をするのを恥かしがる性質なので、すずさんの化粧に噴いた後それを誤魔化す咳拂ひなどしてゐた。そんなことせんでええから、普通に笑たらええねんでと後で言つておいた。

後半、重く静まり返つた中で「そりや嫌味かね」のところで結構な笑ひ聲が起きたのは、何だかそこに縋る樣な雰圍氣もあつて物悲しかった。

映畫が終つて、フードコートで晝食をいただいてゐたら父が口を開いて謂く「小さい頃の生活そのままぢやつたなう、配給がどんどん少なうなつてな。あんな(呉の樣な)都會と違うて海や畑がある分、あそこまで酷うはなかつたけどな。都會のもんは喰ふもん無うて芋の蔓まで喰ふとつたいふもんなあ。儂のお袋も時々船に乘つて笠岡までヤミの買出しに行つとつてな、何囘か駐在所に捕まつとつた」父は昭和十四年生れ、晴美ちやんとほぼ同世代(たぶんヨーコと同じ年くらゐ)。それにしてもそんな話初めて聞いたわ。

「捕まつたいうても十五分くらゐ説教されてすぐ放されるんやけどな。皆やつとるし一々取締つとれんけど、見つけたら捕まへん訣にはいかんからな」
まあお巡りも身綺麗な訣でもあるまいし。魚は捕れるといふが、舟なんか出して機雷の心配は無かつたのか。

「機雷はさうでもないが、さういへば島にも空襲はあつたなあ。艦載機が村の眞上をブァーッて低空飛行してな。爆彈は落さんけど」
なるほど子供心には「空襲」だつたのだらう。ちよつと調ベてみたら福山市が苛烈な都市空襲に見舞はれたさうで、その前哨として艦載機が何度も現れたらしい。南洋の空母から發進して四國を横断したへルキャット邉りが島々の上空を低空で通つたものとみられる。勿論、島影に隠れて目標に接近する爲に低空侵入するのである。ああ、當時の子供の証言と歴史の資料がかういふ風に繋がるのだな。こんな作業を片渕監督やこうの先生は延々積重ねてきたのだ。そりや面白い訣だよ。

すずさんが江波に歸つた晩の夕食の貝について話を向けてみた。島でも小螺の類はよく拾つて食べるものだが。「あの頃は食べるもんがないからああいふのは皆が拾ひに行つて、あつちふ間に採り盡されて無うなつた」それあさうか。そして原爆。

「眞鍋からも原爆のキノコ雲は確かに見えた。皆で騒ぎになつて、山に上つてありや何ぢや言ふて。物凄い音も聞こえた」
廣島市から眞鍋島までは直線距離で百キロメートルはあるが、あの晴れた日に一万六千メートルもの高さの雲の塊が上れば見えもしようか。正直想像もつかないが。遠くの鐡床雲と區別がつくや否や。

戰後生れの母も「さういヘば魚雷の水柱が山の向うに上つたのを覺えとるわ」と言ひ出した。いやいや。戰後に魚雷て。よくよく聞けば、機雷の掃海作業で爆破処理を島の裏手の海域で行つたらしい。數十メートルの水柱が上つて、表側の村からも見えたと。それは壮觀だ。

晝にそんな話を聞いて、タ食の時にまた父がしみじみと口を開いて言ふのが「アニメやつたから良かつたんかなう、途中で絶對寝ると思たけんど眠らんかったもんなあ。普通の映畫やつたら寝とつたかもなあ。面白かつた。空襲、迫力あつたなう」。普段、ドラマや劇映畫を決して觀ない父にここまで言はせたのだから、引張り出した甲斐があつたといふものだ。

この世界の片隅に」は父と同年代の作品だから、母向けには「マイマイ新子」を見せてやらうかの。