大和但馬屋日記

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エクアドルでも大きな地震。立続けに起きた災害の一方の当事国の住人としては嫌でも優先順位の様なものを意識せざるを得なくて辛い。せめて次にコーヒー豆を買ふ時はエクアドル産の豆にしよう。


此度の地震で「中央構造線」といふ地学用語がクローズアップされるや否や、「日本の重要な神社の多くが中央構造線の上に建てられてゐる、これは昔の人が断層の位置を知つてゐてそこに結界を張つたのだ」などといつた妄言が出てきた。日本に幾つ神社があつてその内の幾つが該当するのかとか、それぞれの由緒や時代背景などは勿論一切お構ひなしだ。
元より山岳信仰の色濃い我が国の人々が地学上の巨大イべントの残骸である中央構造線に沿つて形成された山々を崇め、谷筋に水を求めて道を造つて棲む様になるのは当り前のことだから、そこに古来の神社が多くあるのは必然である。それらを線で繋げば意味ありげにも見えよう。しかし、それだけである。「神代より言伝て来らく空満つ倭の国は厳しき国言霊の幸はふ国と語り継ぎ言ひ継がひけり」と山上憶良も歌つてゐる様に、神社にその様な意味があるのならその旨を言霊として言ひ伝へるのが日本流なのである。
断層と地震とそこに神社があることに因果はあるが、その順序を取違へてはならないし、線で結んでそれらしく見えることに至つては偶然としか言ひ様がない。人里の近くに秀麗な山が見えればそこに神社は建つのだし、山はどこにでもあるのだし、山がない処にも神社は建つのだ。