大和但馬屋日記

はてなダイアリーからの移行中

求めるもの

風景の効果的な見せ方について、パッと思いつく限りでは3通りほど考えています。
1.ごく単純に、美術さん・背景さん・撮影さんの仕事が素晴らしい
2.連続した空間表現の起伏(コンテ)によるコントロール
3.風景に関係した演技を挟むことで、空間にキャラクターが居ることを描写し、世界観へと引き込む(=世界観のひとつである風景に、肉眼的な感情移入をさせる準備)
(略)
さらに、何気ない演出とはどういうものかを考えると、2種類あるのではないか考えています。
4.当たり前すぎて気がつきにくいもの
5.本当に何気ない動作・演技

話が分り易くなるやうに分類して頂いたので、それに乗じて少々思ふところなど。アニメ全般に関して言へば仰る通りで、では私はそのうちのどれを「ARIA」に対して求めてゐたのだらうかと改めて考へてみました。

ごく単純に、美術さん・背景さん・撮影さんの仕事が素晴らしい
第一期でまづ感心したのはこの点なので、第二期においても同程度の期待はしてゐます。但し第一期でも後半では厳しかつたので、「たまに良い仕事が観られれば嬉しいな」といふ位のスタンスで。所詮テレビアニメですから、要所さへ押へてくれたらそれでいい。ただ、第二話はまさにその「要所」だと思ひました。
連続した空間表現の起伏(コンテ)によるコントロール
「ARIA」といふ漫画を映像化するのであれば、ストーリーがどう弄られても構はないから、ここだけは何としても死守してほしい。もし全話を通じてそれができない(する気がない)なら、私はこの作品を追ひかけるのをやめるべきなのでせう。
風景に関係した演技を挟むことで、空間にキャラクターが居ることを描写し、世界観へと引き込む
これも要所が押へられてゐれば、多くは望まない要素です。劇場用とかOVAならともかく、テレビアニメに求めるものとしてはハードルが高いですから。

いろいろ考へてみたのですが、例へば「十秒間ただ風景を映すだけ」などといふカットをテレビアニメで使ふのは演出としては難しいのかな、と思ひました。例が古くて恐縮ですが「ルパン三世 カリオストロの城」で、夕暮れの湖をただゆつくり映して時計塔の鐘だけが鳴り響くカットのやうなものを想像していただくと良いのですが、私からすると「ARIA」は必要ならばさういふことをやつて構はない作品だと思ふのです。もちろん前後の見せ方には細心の注意を払はないと居た堪れない時間になるのは百も承知で、佐藤順一がさういふことはやらない人であらうことも承知の上で。
「何気ない演出」については、引用部の4.や5.といふことよりも、文意を取り違えていなければ、大胆な背動で誤魔化さずに実直な見せ方をしてほしかったと、寸゛さんは言っていると読み取つて頂いた部分で相違ありません。私は決して「原作と違ふから駄目」と言ひたいわけではなくて、ただ映像としてのあの繋がりは強引かつ不自然だとしか思へないのです。
やや横道に逸れますが、4.や5.に関する部分については、見る側にもそれなりの目が要求されると思ひます。第一期第三話の導入部分で、風に乗つて滞空するカモメの絵がありましたが、どこかで「カモメの痙攣ヤバスw」といつた様な感想を目にして唖然としたことを思ひ出しました。その直前の灯里のモノローグを聞いてゐればどういふ演出意図かは分ることなのに、これでは後藤圭二も浮ばれんな、と思つたり。とはいへ、私自身も色々見落してゐるに違ひありませんが。閑話休題
全般的な話としていへば、作業の手数で解決できさうなことについては、少々不出来であつてもそれほど不満には感じません*1。前回指摘した背景のパース狂ひについては「定規を使つて何故ああなるのか」といふレベルなので流石に黙つてゐられませんでしたが、常に厳密に正確でなければならないとは毛の先ほども思つてませんし。
気になるのはやはり手数では解決できない部分、あるいは手数の足りなさをもやり方次第でフォローできるはずの部分、それが即ちコンテでありレイアウトだと思ふのです。これが「ARIA」でなく他の作品であれば、脚本や声優の演技である程度フォローが利いたかもしれない。佐藤順一総監督が最も力を活かせるのは恐らくその辺りなのでせう。佐藤順一の、キャラクターに何かをさせることで「楽しい」絵を作る才能にかけては全く疑ふところがありませんし、「ARIA」においてもエピソード的に面白い話ではその手腕が如何なく発揮されてゐます。ただ、それは私が観たいものとは少し違ふかな、と。仮令「アニメの本流」から外れてゐたとしても。
原作改変についてはとりあへず不問といふことにしておきます。

*1:逆にいへば手数がかかつてゐるからといつて褒める気も起らないといふこと