大和但馬屋日記

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どちらが間違つてゐるわけではないといふ誤謬

  • 医師の塩谷信男先生曰く、「地球が太陽の周りを回るスピードは秒速三十キロ。それで空気が乗っているわけがない」と。不思議だが、これは天動説なら説明がつく。
  • プトレマイオスが天動説を唱えた理由のひとつに、地動説だと地球上には想像を絶した暴風雨が起こり、地上には何も残るはずがない、ということもある。

めちやくちやだ。もちろんオレが「地動説が正しい」ことを刷込み的に盲信してゐるからさう思ふことは承知の上で言つてゐるのだが、めちやくちやだと思ふ。例によつて原著に当つたわけではなく、あくまで引用された文に対して、それを引用した意図*1に対する批判となるけれども。
医師の塩谷信男先生のことは知らないけれども、これは単に慣性といふものを知らないから出てくる台詞にすぎないではないか。こんなものを天動説が正しいといへる根拠に挙げてよいならば「鉄の塊が空中に浮いてゐられるわけがないから飛行機は神の力で飛んでゐるのだ」だの「回転する球体の表面に人や物が貼付いてゐられるわけがないから地面は平らなのだ」だの「印欧語の正体は漢字だ」だのと言つて良いことになる。つまり、天動説でも地動説でもどちらでも間違いではない、ただの天体の軌道計算の都合の問題なのです。などと一見尤もらしい、いかにも相対主義者らしい物言ひをするためならば物理学の伝統と蓄積は無視しても構はないとでも言ふのだらうか。それこそ相対主義者の好きな「どつちもどつち」ではないか。その程度の低拙な根拠で良いなら、天動説の考へ方だけで「一年の間に季節が変化する理由」の説明を試みてはどうだろうか。不思議だが、これは地動説なら説明がつくのだけれど? そして、地球の大気は現実に吹き飛んでゐないし、季節は確実に変化するのだけれど?*2
たとへば飛行機やF1マシンの開発で用ゐる風洞実験の施設では、飛行機や自動車を固定しておいて空気の方を強力なファンで流す。実際に物を動かすと測定データが取れないから、周囲の世界の方を動かさうといふわけだ。これはまさに天動説的立場に相当する。もちろん、考へ方として間違つてはゐない。しかしそれはあくまでも「見倣し」であつて、飛行機は(理想的には)静止した空気の中を横切つてゐるのだ、といふ事実は揺るがない。地球から見た衛星軌道の計算にしても同じだ。台東区内の地図を表すのに地球の球面を意識する必要はなく、その限りにおいては「地面は平らだ」と言つても間違ひではない。しかしそれは「地球が丸いといふことが絶対的に正しいとは言へない」ことと等価ではないだらう。「さういふ見方もある」「さういふ立場も取り得る」と言ひたいことは分るけれども、「○○が絶対的に正しい」ことを否定するためなら何でも引用してよいことにはならないと思ふ。
以上原著を読んでゐないので、あくまでイワマン氏のといふことです。はい。とまとめられた記事に対する批判とさせていただきます。昨日の記事に関連して言へば、「正しさ」といふものを心から信じなくなつてゐる大人の典型的な物言ひだと思はれますよ。
と言ふか。相対主義的な見方による「天動説」と、プトレマイック・セオリーの訳語の「天動説」と宗教的「天動説」を混同して語つちやいかんでせう。それこそオカルト主義者の好きな詭辯といふものです。そして、その時に持出される「地動説」は、「天動説」のどれかへの対立項としての役割を押付けられてゐるにすぎず、それは科学的に現在正しいとされてゐる地動説とは別の何かであると言へます。
といふかといふか。今の小学生も、別に四割が「天動説を信じてゐる」わけでは全くない。ただ「日が昇り、月の形が変る」といふ観測的事実しか知らないだけのことだ。


御返事頂きましたが、イワマン氏が渡部昇一谷沢永一の対談から何を引張り出して何を言はうとしてゐるのかがよく分りません。
私は渡部昇一といふ人物に興味がないので引用いただいた部分を真に受けて反論します。

カトリック的人類学で葬式があれば人間だというのは、不死の魂という観念を持っているかどうかを基準にしています。不死の魂とは、いわゆる言語がある魂と考える。そして、こんな発生をしたのは宇宙の中で地球しかない。その地球が太陽ごとき火の玉の周りを回ってたまるか。向こうが回っているべきだ。というわけで、天動説は生命発生及び人間の不死の魂の説明ともつながってくる(笑)。

こんな発生をしたのは宇宙の中で地球しかないと何故言ひ切れるのか。言ひ切る根拠があつたとして、そのことは向こうが回っているべきだといふべき根拠たり得るのか。天動説は生命発生及び人間の不死の魂の説明ともつながってくる(笑)とあるが、何もつながりは見出せないし、(笑)が含まれてゐるあたり、渡部自身が自分の言葉を信じてゐない様にすら思へる。
私は宗教を否定しないし、宗教と科学は共存し得るとも思つてゐる。しかし、それは宗教が論理的思考を放棄しなければの話だ。渡部の言葉は論理的でない。論理的でない言葉を引用して、イワマン氏が何を伝へようとされてゐるのかが分らない。それと、アキレスと亀の譬へもよく分らない。
で、次の項でもくだくだ言つてゐることなのですが、地球を基準として止つてゐると見做せば天動説になる。地球以外のどこかを基準にすれば、地動説になる。といふ中にある「天動説」とか「地動説」とかいふ言葉は、ガリレオと教会が争つたそれとは異なるものなんぢやないですか、と。私はイワマン氏がそれらを一緒くたにしてゐることと、その論拠が論理的でないことに対して異を唱へてゐるのです。『「宗教とオカルト」の時代を生きる知恵』は対談本といふことですから、挙げられた発言の一つ一つの精度はさほど高くないでせうし、それらを抜き書きしても論理的な繋がりは薄いでせう。それらをただ並べてから「相對論的見方が正しい」といふことになると結論付けられても、それはまるで悪しき相対主義者の物言ひではないですか、と。要するにといふことです。はい。に対して「全然違ふやん!」とツッコミを入れてゐると解して頂ければ。

*1:ご自分の記事に採上げたイワマン氏の意図でもあり、元記事での対談中にそれを持出した話者の意図でもある

*2:相対主義的詭辯予想「地球上には季節の変化のない場所もある」