大和但馬屋日記

はてなダイアリーからの移行中

消えるカーソル

Operaのウインドウ内でマウスのセンターホイールをクリックすると、カーソルがホイールジェスチャーの状態に変化して、スクロールやズームなどが行へる様になる。なるのは良いのだが、その時にマウスカーソル自体がウインドウの中央に強制的に移動する。これがどうもいけない。
マウスオペレーションの経験がX68000に始まりMacintoshを経てWindowsに至つてゐるので、このWindowsによく見られる「マウスカーソルをユーザーの操作の手から奪ふ」といふ行為がしばしば気に障るのだ。X68もMacもおそらく思想的に「マウスカーソルはマウスによつてしか動かされない」といふ風に設計されてゐた。
まあ、カーソルがどこかに勝手に動いたからといつて具体的に困ることになつた訣ではないが、自分の「手」として注視してゐるものが突然消えてしまふのは気持悪いし、親切でやつてゐるのだとしても大きな世話だと思ふ。

「アレしてゐる私とコレしてゐる私は別なので」

さういふ風に出来れば便利だとは思ふことは時々ある。しかしそれは他者にとつてはどうでもいいことだ。101系と103系の違ひよりもどうでもいいことだ。団子虫と草鞋虫の違ひよりはましといふ程度のことだ。他者は他者で「アレしてゐるあいつ」と「コレしてゐるあいつ」をトータルな人格として見たがつたり行為ごとに分けて見ようとしたりしてゐる。下手したら全然関係ない誰かと一緒くたにされたりもするくらゐだし、別の誰かと自分を無意識のうちに同じとする「私」だつて居る。「見られたい自分」は自分で演出するしかないのだらうけど、それとて「外」に対しては所詮蟷螂の斧だ。
自分と自分の出力したものを相対化したいといふ欲望はどこから来るのだらう。
「私」は、「私の文脈」からどこまで自由になれるだらうか。仮令それが支離滅裂でも、文脈は文脈なのではないか。「私」を文脈から解放し、他者の文脈にも取込まれまいと欲するならば、書くのをやめるかSixamoにでも任せるしかないのかもしれない。しかし、Sixamoは結局「私」の文脈のサブセットでしか語らない。
「私」は「私」だ。押しも押されもせぬ、でも押されたらクニャッと曲がつたりポキッと折れたりグシャッと潰れたりすることもある「私」だ。なんかしらんがさういふことにしておきたいのがワシだ。
なんだこれ。

  • 2006年02月24日 jisou_kyuuhou 『でも空をかけるあいつと海を守るあいつと大地をはしるあいつは別人だと思う。どんな敵も倒せる仲間だし、一人よりも二人がいいし、二人よりも三人がいい。』

iPodのバッテリーのその後のその後

もう一度完全に使ひ切つてからフル充電して連続再生してみた。九時間を過ぎて、まだ一時間以上は十分に使へさうな残り容量を示してゐる。リハビリ成功かしら。十時間保つなら全く問題なし。劣化したと思つてもなんとかなるもんだね。
携帯やタブレットPCのバッテリーも何とかならんかな。ACアダプタ使用時にいちいちバッテリーを外すのも面倒だ。
ばつてら喰ひたい。

今日のゲーム(二月二十三日)

THEお姉チャンバラ2(PS2,D3/TAMSOFT,ASIN:B000BBMZVA)SIMPLE2000シリーズ Vol.90 THE お姉チャンバラ2

何だかふと斬りまくりたい衝動に襲はれたのでセーブデータ使はずに最初から始めてみた。難易度はノーマルで。
最初の一面をクリアするまではレイコしか使へないので我慢して、二面で姉妹を使つて斬りまくり。クール繋げばレベルも早く上るし、溜まつたポイントはすべてコンビネーションに注ぎ込めばさらにレベルが上り易くなる。クールさへ出せれば簡単なゲームなんだよ。たぶん一週間もあれば全要素コンプしさうだ。だからこそ初見の難しさが極立つ訣で‥‥バランスが歪であることは疑ひ様がない。
ただ何が困るつて、クールコンボ繋いでると楽しいんだよな。こないだ「真・三國無双3EMPIRES」を遊んだら、もうこれの何が面白かつたのか忘れてしまつたよ。前に話題にした「手応へ」の違ひといふ奴かしらん。単純だねえ。