大和但馬屋日記

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ロケットまつり10

一昨日のロケットまつり10の感想を纏めておく。如何せん、呑みながら聞いてる話なので聞き間違ひや記憶違ひが多々あると思ふけれどもそれは勘弁。そんな酔つた頭にでも強く残つたことだけを忘れない様にメモしておく。

イベントが本になります!!

今村さん、頑張れ。超頑張れ。ところで文字起しといふか、ライティングは誰がやるのかな。やはり松浦氏?
ともあれ出たら買ひますもちろん。

林氏、ISASニュースの記述に憤慨

当該号はまだWEBには上がつてないのかな? ともかく、「宇宙開発は糸川教授のハッタリから始まつた」とかなんとかいふ趣旨の記述に憤慨してをられた。しかし周りの出演者は口を揃へて、「いやあ、あれはハッタリでせう」と意地悪をいふ。
林氏が言ひたさうにしてゐたのは「成功を予見して発言した言葉をハッタリと言つてよいかどうか」といふ点。たしかにさうかもしれないが、こればかりは何とも言へない気がする。
ワシがこの話で思ひ出したのは、「では戦前の『弾丸列車計画』はハッタリだつたのかどうか」といふこと。当時の技術レベルから考へれば、それは多分に荒唐無稽ではあつた。しかし実現の可能性が検討されて計画は実行に移され、多くの用地が買上げられて、新丹那トンネルの着工がなされた。その後、用地と掘りかけのトンネルは新幹線に流用され、「弾丸列車」は全く姿を変へたものの一往は現実のものとなつた訣だが、計画の立案の時点でそのどこまでが本気でどこからがハッタリなのかの線引きができるものだらうか、などと話を聞きながら考へてゐた。
といふか、大東亜戦争の諸作戦とそれに付随する計画は結果論としてすべてハッタリの産物だつたとも言へる訣だし。その内容の成否に関らず、たぶんそれらをぶち上げた本人は皆本気でできると思つてゐたのではないかな。それがハッタリでなかつたと証明するには計画を実現する以外にない訣で、だからこれも結果論にしかならないけれど、林氏が「決してハッタリではない」と言ひたい気持は全く正しいと思ふし、酒席での笑ひのネタならともかく公式のISASニュースにまで「ハッタリ」呼ばはりされればそれあ心外だらうと思つた。

垣見氏、「逆転の翼―ペンシルロケット物語 (ノンフィクション科学の扉)」にツッコミ

「とんでもない間違ひがいくつもある」。
しかし実は、同書の底本となつた資料がその誤りの由来であるとか。そして、その資料の編纂者が当の垣見氏。
「編集するつたつて、誰も人の書いた文章なんて読まないからね」
編集者は大変だ。今村さん、頑張れ。超頑張れ。

質問コーナーから

「私も設計をしてゐる者ですが、よく上司に『設計図面だけを相手に仕事をするな』と怒られます。ロケットの設計をされてゐた垣見さんは、どういふ心構へで仕事をされましたか」といふ質問に対して、「あなたはその図面を書くときに、何回現場に顔を出しますか?」との答へ。設計者は、製作現場に一日に二度も三度も足を運ぶべきだ、と。
この話、どこかで聞いたことがあるぞと思つた。「世界最速のF1タイヤ―ブリヂストン・エンジニアの闘い (新潮新書)」に、著者の浜島氏が初めてタイヤの構造設計を手掛けたときに、やはり現場の職人にこつてり絞られたといふ経験談が書かれてゐる。要は「こんな紙切れ一枚で人を動かせると思つたら大間違ひだ」といふことだらう。
「上流」から「下流」までのワークフローをガッチリ作つて、そこにデータなり部品なりを流せば物が出来るなんてのは、それあもちろん理想的ではあるのだらうが、時に重大なミスの元となる。例へばこんな話とか。悪意の玩具 - 大和但馬屋日記
その一方で「人」に依存しすぎると、「その人無しでは何も動かない」といふことにもなる訣で、それはそれで弊害を生むこともあるので難しいところではあるけれど、仕事上の人間関係を仇や疎かにすると上手くいくものも上手くいかないよといふのは認めざるを得ない話だと思つた。それに賛成するかどうかは人それぞれかもしれないが、反対するならば「さうしなくても上手くいく」といふ実例を見せなくてはなるまいな。
さういへば、「承認」のハンコひとつにしても、「ある人の場合、出された書類を誰が書いたかを見て、信頼できる人のものであれば内容を見ずに盲判を押す。知らない人間が書いたものならば内容を徹底的にチェックする」といふ話も出てきた。盲判の是非は措くとして、作業を「流す」にしてもそれはやはり信頼関係があつてこそであり、決してシステムが先に立つやうなものではないといふことだな。近年よく耳にする「ISOなんとかかんとか取得」といふものに対するザラッとした違和感はその辺に起因するのかも。「ISOなんとかかんとか」が駄目だ、と言ひたい訣ではなくて。

その他

例によつて危なくて書けません。本になるのを楽しみにしてゐよう。

十五人分のグラディウス

面倒くさいんで英文はきちんと読んでないけれど、十五人分のプレイを重ねてみました、といふムービー。ええと、後で読む。なんか面白さうなことが書いてある気配ではある。
意外だと思つたのは火山のとことビッグコアのとこで「ワシならかうする」といふ位置取りをするプレイヤーが一人も居ないこと。ワシはそれを「皆さうしてるんでないの?」と勝手に思つてたのだけど、実はさうでもないのかな、やはり。いや、ビッグコアのとこでは一人だけそこに居ることは居たのだけど、途中から動いてしまつてるし。これは「トイレの中でのパンツの脱ぎ方」みたいなもんかもしれない。
それにしても真先にダブル取つてる人には「おいおい」と思つてしまつた。あんたはアーケード版のデモプレイですか。

田口仙年堂は絵描きに愛される作家だなと思つた

コッペとBB団 その2(田口仙年堂,ファミ通文庫) - 大和但馬屋読書日記 - bookグループ

コッペとBB団 その2 (ファミ通文庫)

コッペとBB団 その2 (ファミ通文庫)

ああ、もう上手いなあ。薔薇の騎士のキャラづくりなんて今更ピクシィミサですか手垢つきまくりだろと最初は思つてたのが、さういふ風に持つていくのかと感心させられた。上手いなあ。
どちらが善でどちらが悪かといふテーマ自体もさう珍しいものではないけれど、その作品世界で「正義のヒーロー」と「悪の組織」が最初になぜその様に定義づけられて広く認知されるに至つたかが気になるといへば気になる。一巻目で説明されてたかな? よく覚えてないので後で読み返さう。たぶん、今回明かされたデイストーンの秘密とも関つてきさうだ。
後書きがほとんど「ガーゴイル」のことばかりなのはどうかと思ふ。ところでコッペとガーゴイルは実のところ表裏一体といふか、似たもの同士なんだよな‥‥と気がついた。それでいて同工異曲といふ感じもしないし、大したもんだ。
文章表現で一箇所だけ引掛る点があつたが、これは編集者が気付いてフォローすべきところではないかな。

ネクラ少女は黒魔法で恋をする(熊谷雅人,MF文庫J) - 大和但馬屋読書日記 - bookグループ

ネクラ少女は黒魔法で恋をする (MF文庫J)

ネクラ少女は黒魔法で恋をする (MF文庫J)

今時「ネクラ」といふのもどうか、などと思ひながら読み始めた。
着想をそのまま形にしたといふ感じで、その着想自体は良いのだけど、各方面にあと一歩づつ踏み込みが甘い。なんでもネガティブに自己完結してしまふ主人公が変つていく様も、結局自己完結の域をあまり踏み出てゐない気がするし、その変化の切掛けとなる個々の事象についても割と簡単に流れてしまふ。悪魔を寄せ付けない伊丹書店の秘密とは? とか、大河内との恋を賭けた一大喧嘩が始まるのか? とか、出演するはずだつた舞台はどうなつた? とか、読みながらそれなりに期待を煽られた部分がいくつもあるのに、どれも何ともならなかつたのが惜しい。全部を欲張るとそれはそれで大変だけど、どれか一つにでも踏み込まないと一番重要なテーマまでも流れて行つてしまふ。それらは続編で回収すべきやうなものでもないと思つた。
丁寧に書かれた文章は読み易かつた。それが、良くも悪くも作品の内容を表してゐたと思ふ。

ロールシャッハテスト

思い切りハートフル善意欲目全開にして見ればタイタニックランスを描いてる様に見えない事も無いような気がしてきませんか何となく。真ん中にどんと描かれてる戦闘機がシルバーホークに似ても似つかないのが気になりますが、これきっと雑魚敵ですよ、うん。

なんとなく見えてこないことはないといふか、「もしかしてさうかな?」と疑ひもしたのですが、やはりさうなのでせうか。どちらかといふと「メタルブラック」に出てくるよく似た人の方が近いかもしれません。さうでもないか。

カットシーンの良し悪し

「新鬼武者」のボスを倒した瞬間に、プレイヤーの手応へを奪つてしまふといふ話。もう二年以上も前にid:yms-zun:20031209:1070966266で「Zガンダム」に関する指摘をしたけれど、あれと似た様な話らしい。id:yms-zun:20031019:1066497786にも繋がるかな。
極端な話をすれば、ワシは「敵にダメージを与へて体力ゲージを減らしていつて倒す」といふ形式を取るすべてのゲームに対して、「手応へ」といふものを感じない。そこに感じるのは精々「やつと倒した」といふ充実感だけだ。
ダライアス」のやうに「ゴゴゴゴ」と重苦しく沈んでいつたり、「ダライアス外伝」のやうに「キシャーン!! キシャーン!!」と内側から光の漏れる「タツノコ爆発」をしたり、「メタルブラック」のやうに暗転して「グゴゴゴゴ」とシルエットが発光しても、絵としては格好いいと思ふけど、やはり「倒した!」といふ手応へとは何か違ふ気がする。
それよりはやはり「ゼビウス」のアンドアジェネシスに必殺の一撃を叩き込んだり、X68000の「スターウォーズ」でデススターの通気ダクトにプロトン魚雷を叩き込んだり、とにかくさういふ風に「叩き込む」感じが欲しい。その点、「ガンフロンティア」の一騎打ちは素晴らしいね。あと、「スペースチャンネル5」の各ステージクリアの瞬間は、「お約束」であることを逆手に取つてうまい「手応へ」を感じさせてくれる。故に外したときのガックリ感も一入だ。
ただ前述の「スターウォーズ」の場合、魚雷を叩き込んだ直後に壁にぶつからない様に回避行動をとれば、あとはプレイヤーの手を離れてカットシーンに移行するわけで、実はやつてゐることは「Zガンダム」のトドメの一撃などとさう大差ないことに気付く。でも、その一撃の手応へが全然違ふのも確かな話で、遠くで爆散するデススターは確かに俺がぶち壊したのだと誰もが確信できるだらう。さういつたことを考へると実はカットシーンのそのものに是非があるわけではなくて、その前後で「プレイヤーに具体的に何をさせるか」が上手いか下手かといふ話でしかないと思ふ。だから、「カットシーンを否定するのが進んでる」といふ理解の仕方は正直疑問だ。こないだのmixiの画面レイアウトの件と同じで、手法自体に善悪があるわけではなくて、その手法をとる意味を分つてゐるか否かといふことだらう。
余談ながら、「プレイヤーに何をさせるか」で個人的に衝撃だつたのは「ナイツ」の最終ステージ冒頭。あれに匹敵する演出には未だ出会へてゐない。

将来の時間を前借り

それは、旅に備へて「やん」用にエンコすべきなのでは。‥‥時間掛るんですよねえ(溜息)
とりあへず暇をみてはRD-XS31に録り溜めた番組をエンコしまくつてゐるけれども、時間の負債を右から左へ移してゐるだけのやうな気がする毎日。
ともあれ、よい旅になることをお祈りしてをります。

はてなRSSの仕様が変つた?

なんかどれもこれもJavaScript必須にしてくれるよなあ。そこまでしなくてはならんほど「便利」になつてるのか本当に。つか「便利」てのは、それが「ほんの少し」レベルあつても絶対に正義なのか。


仕様が変つたといふのは気のせゐか。取得情報が突然リセットされたんでさう思つたんだけど。ダイアリーがどうかうなつた訣でもないから、のべつ幕なしに味噌つけるのは控へよワシ。