大和但馬屋日記

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カットシーンの良し悪し

「新鬼武者」のボスを倒した瞬間に、プレイヤーの手応へを奪つてしまふといふ話。もう二年以上も前にid:yms-zun:20031209:1070966266で「Zガンダム」に関する指摘をしたけれど、あれと似た様な話らしい。id:yms-zun:20031019:1066497786にも繋がるかな。
極端な話をすれば、ワシは「敵にダメージを与へて体力ゲージを減らしていつて倒す」といふ形式を取るすべてのゲームに対して、「手応へ」といふものを感じない。そこに感じるのは精々「やつと倒した」といふ充実感だけだ。
ダライアス」のやうに「ゴゴゴゴ」と重苦しく沈んでいつたり、「ダライアス外伝」のやうに「キシャーン!! キシャーン!!」と内側から光の漏れる「タツノコ爆発」をしたり、「メタルブラック」のやうに暗転して「グゴゴゴゴ」とシルエットが発光しても、絵としては格好いいと思ふけど、やはり「倒した!」といふ手応へとは何か違ふ気がする。
それよりはやはり「ゼビウス」のアンドアジェネシスに必殺の一撃を叩き込んだり、X68000の「スターウォーズ」でデススターの通気ダクトにプロトン魚雷を叩き込んだり、とにかくさういふ風に「叩き込む」感じが欲しい。その点、「ガンフロンティア」の一騎打ちは素晴らしいね。あと、「スペースチャンネル5」の各ステージクリアの瞬間は、「お約束」であることを逆手に取つてうまい「手応へ」を感じさせてくれる。故に外したときのガックリ感も一入だ。
ただ前述の「スターウォーズ」の場合、魚雷を叩き込んだ直後に壁にぶつからない様に回避行動をとれば、あとはプレイヤーの手を離れてカットシーンに移行するわけで、実はやつてゐることは「Zガンダム」のトドメの一撃などとさう大差ないことに気付く。でも、その一撃の手応へが全然違ふのも確かな話で、遠くで爆散するデススターは確かに俺がぶち壊したのだと誰もが確信できるだらう。さういつたことを考へると実はカットシーンのそのものに是非があるわけではなくて、その前後で「プレイヤーに具体的に何をさせるか」が上手いか下手かといふ話でしかないと思ふ。だから、「カットシーンを否定するのが進んでる」といふ理解の仕方は正直疑問だ。こないだのmixiの画面レイアウトの件と同じで、手法自体に善悪があるわけではなくて、その手法をとる意味を分つてゐるか否かといふことだらう。
余談ながら、「プレイヤーに何をさせるか」で個人的に衝撃だつたのは「ナイツ」の最終ステージ冒頭。あれに匹敵する演出には未だ出会へてゐない。