大和但馬屋日記

はてなダイアリーからの移行中

私は自分のことしか考へない人間なので

ある環境の人が居るからそれに配慮するのではなく「その環境の人にそんな風に見られてゐる、かもしれない」といふことを気にしてゐるのであります。何度か書いてゐることですが、私の日記は読者のためにあります。そして、私の日記の第一の読者は私です。

情報の取捨選択

見た目に拘つてる。しかもウェブサイトの見た目にまで拘つてるんぢやしやうがないな。便利だなこれ。岡本太郎メソッドとでも名付けますか。
どうも横スクロールバーに対する、ゴキブリでも見たかのやうな反応が事を大きくしてるだけのやうな気がするな。そんなのどうでもよくて、「読者に対して、一つの画面内にどこまでの情報を盛り込みますか?」といふ取捨選択の話であるべきなのだが。「ポータルサイトは何×何ピクセル以内に収めるべきだ」とか、前提も根拠も全然分らない。「全部が表示されるにこしたことはない」‥‥その全部つて、何と何と何?
まあ、関係ないけどこんな昔話があるんだ。
某有名美大を目指して勉強してゐた頃の話。志望学科の受験科目に「立体構成」といふのがあつた。与へられたいくつかの材料を用ゐて、与へられたテーマと条件の中で立体物を作るといふものだ。テーマは大抵抽象的な語句であり、条件は「Xcm×Ycm×Zcmの空間内に収まること」などといつた物理的な制約だつた。材料は角材やケント紙、スチレンボード、針金、竹ひご等々、六〜七種類くらゐあつただらうか。
受験の為に通つてゐた美術教室で初めて同様の課題が出された時、ワシは直感的に「この材料を全部は使へない」と思つた。無理に使はうとしても破綻するだけだ。それよりも、「どんな立体をつくるべきか」をイメージして、それに必要な材料を導くべきだらう。
さて、各自作品を作り終えて制限時間になり、講評の段になつた。講師が各自の作品を眺めて開口一番言ひ放つたのはこんな言葉だつた。
「お前らな、材料をあれだけ出されたら、三種類までしか使ふなよ」
それを聞いたワシは一人で意を得たりとほくそ笑んだものだ。実際、その点だけは評価されたが、肝心の造形センスについて散々に言はれてしまつた。まあそれはいい。
その時の講師の言葉がどこまで正しかつたのかは、今となつては分らない。それはあくまで受験対策のための戦術にすぎないし、その講師は目指す大学の卒業生ではあつても採点担当者だつた訣ではない。ワシは結局その志望大には落ちてしまつて滑り止めの私大に進んだのだから、ますます心許ない話ではある。しかし、あの時の直感と、全員の作品を見渡した後に講師が漏らした慨嘆に間違ひは無かつたと思つてゐる。なぜなら、目指してゐた学科は「デザイン科」だつたからだ。
だから何だつて? ワシにも分らないけど、なんとなく思ひ出したのさ。
別に今突然思ひ出した様に思ひ出した訣でもなくて、「ブログ」やなんかでひとつのエントリに対して周囲のメニューだのアフィリエイトだのトラックバックやコメント通知だのの分量が記事本文よりも明らかに多すぎるページを目にするたびに、いつも思ひ出すんだけどね。

DS liteにGBAカートリッジを挿すとはみ出す件について肯定的に捉へてみる

これはGBA時代からの不満なのだけど、「今挿してゐるカートリッジが何なのか」が分りにくい。一センチもはみ出せば、少しは判別しやすくなるだらう。
うーん、少し無理があるか。まあいいや。それより蓋を無くさないかが心配だ。

一度ついた怠け癖はなかなか直らない

灼眼のシャナIII〜XII(高橋弥七郎, 電撃文庫) - 大和但馬屋読書日記 - bookグループ

灼眼のシャナ〈12〉 (電撃文庫)

灼眼のシャナ〈12〉 (電撃文庫)

年末年始に既刊を一気に読んで、今日最新刊の十二巻を読んだところ。
最初からの印象どほり、確かな描写力でぐいぐい引張られて、一気に読み進めることができた。一冊ごとの感想は省くが、少年漫画的に実に面白い。ただし、「0」のパロディ短編だけはいただけない。まあ、あまり向いてないことはするな、と。
アニメ版は、観るとその後文章を読む際に台詞に声がついてしまふのが嫌なので避けてゐる。が、この間たまたまスカパーでやつてゐるのを途中から観てしまつた。第四話かな。多少話の構成は変へてあるやうだが、特に描写に違和感などは感じなかつた。これは、元の文章の描写が確かだから制作側にも視聴者側にもイメージのぶれが生じてゐないものと好意的に判断したい。声もイメージを崩すやうなものではなかつた。
しかしやはり、最新刊を読む際に頭の中に「うるさいうるさいうるさい!」と釘宮声が響いたのには困惑した。さういふ色は、本を読む時には要らない。