大和但馬屋日記

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UFOではなくF1の話

イーグルといふ一九六〇年代のF1マシン。シャープで格好いい。先日亡くなつたダン・ガーニー氏の驅つたこの車が、實は「Forza 7」に收録されてゐることを今知つた。といふか「Forza6」から存在してゐたらしい。不覺。

エンコードに失敗して音が聽き苦しい。「Forza」の吊しのセッティングではブレ一キング時のスタビリティが最惡でどこに飛んで行くかわからないのでデフの減速側を固めて對處。タイヤの内壓は高めにしておくと乘り易い。それでもコントロールしきれずに時々フェンスに擦つてしまふ。

それにしても格好いいなイーグル。俺達の世代、所謂スーパーカーブーム世代は大體一九七〇年代の楔形F1マシンを源體驗としてゐるので、ティレルP34やらロータス72〜79やらフェラーリ312T2やらを至高と崇める傾向にある。それはまあ仕方のないところだが、今の自分には正直それらがあまり心に響いてこない。常に「最高のF1は今レースを戰つてゐるF1だ」と思つてゐて、本格的に自分が觀戦を始めたのは一九八九年だから、それ以前のF1マシンは自分にとつては歴史的な存在だ。F1は歴史を通じてその年ごとに一番速い車を求めるものであるし、その一番速い技術はレギュレーションが大幅に孌更されても殘り續ける。エンジンのミッドシップマウント然り、モノコック構造然り、ウイング然り。べンチュリー構造が禁止されてもべンチュリーカーが確立した理論は現代にまで通用してゐる。さうした目でウイングが取付けられる直前の葉巻型のF1マシンを見ると、やはりこれが全ての源であり、それ故に現代のマシンもここに囘歸しつつある樣に見えるのだ。

今のF1マシンは安全装備やレギュレーションによる寸法規定の御蔭で何かと大振りに見える。しかし、實のところモノコック周りの安全装備と巨大なアンダートレイを除いて見れば、サイドポンツーンも後方のボディワークも小さなものでドライバーの背中から後ろは塊としては何も無いに等しい。かういふ形になつてきた劃期は一九九ハ年のマクラーレンMP4-13あたりだと思ふ。その後F1マシンはミノカサゴの如く空力付加物の塊になる一方でボディの形状はどんどん小さくなつていつた*1。今や、サイドボンツーンなど車體の張出しの半分程度の幅しかない。コクピット横のバンパーが大きく張出してゐるから九〇年代頃のマシンと同樣に見えるだけだ。

ニューウィが葉巻型への囘歸を目指したのかといふと全然そんなことはないだらうが、結果的にさうしたものに收斂していくものなんだらう。性能さへ發揮できるなら葉巻型でいい。今のF1はそれを示してゐると思ふ。

そんな理想像を見てしまふから、今の自分は葉巻型を殊更に格好良く感じてしまふのだらう。決して懷古などではなく。

*1:主にエイドリアン・ニューウィの功績によつて