大和但馬屋日記

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人車一體

レッドブルのツイートから。


何か見たことのないマシンだなと思つたらレットブルに買收される前のジャガーR5にレッドブルカラーを施したものである樣だ。カラーリングが變るとその形が何であるかと中々認識できないものだな。そして何より、複雑怪奇な空力付加物の塊に見えた二〇〇四年當時のF1マシンが今の目で見るとただの箱細工にしか見えないのが意外にショックだ。フロントウイングはもう少しゴチャゴチャしてゐた筈だ思つたが、それはもつと後の話か。
http://f1.imgci.com/PICTURES/CMS/41500/41596.3.jpg
今のF1マシンはコクピットより後ろのボリュームがほとんどなくて、サイドポンツーンも極限まで絞り込んであるから、上から見ると大きなトレーの上に小さな構造物が乘つてゐるだけの樣に見える。實際はフロアパネルに構造上の強度はなくてただの整流用の板ペラでしかないから、それを除いた車體のシルエットをボンヤリ眺めてゐると、現代のF1マシンは實は葉巻時代に囘歸してゐる様にも見えるのだ。そんな馬鹿なと言はれるかもしれないが、ではこの冩眞はどうだらう。
コクピットグロージャンのへルメットから類推される人間のボリューム感に比べて、車體の占めるマスの大きさがそれほどでもない樣に感じないだらうか。上と左右に張出した空氣取入口がシルエットの印象を大まかに決めてゐるとしても、骨格は葉巻型のフォーミュラカーと何も變らないのではないかと思ふ。
思へば葉巻以前のF1は明確に「乘物」だつた。特にフロントエンジンの頃のシートベルトもないマシンはさうだ。それが葉巻型になつて、モノコック構造の背中にエンジンが直付けされる樣になつて、F1マシンは「エンジンを背負つた椅子」になつた。その後、空力の時代になつて箱細工の構造の中にドライバーが押込められる樣になつて、レギュレーションの變遷につれて箱細工の形が色々變るといふ時代が長く續いた樣に思ふ。
それがある時期から、エンジンが極めて小さくなつた。背中に負つてゐたものが腰當てくらゐに小さく低くなつた。その分效率も良くなつて、巨大なインダクションボックスもラジエーターも不要になつた。今それらの爲の吸入口が上や左右に張り出してゐるのは衝撃吸收構造としての機能を滿す爲に決められたサイズで作らなくてはならないからで、走行性能だけを考へればもつと小さく作つても問題はない。
昔は空力效果を考へてわざと大きなボディを作つたりもしたものだが今のトレンドはそれとは全く反對の方向にある。人とパワーユニットが一體化して中心に位置し、その手足の代りに四つのタイヤが生えた樣な存在。F1マシンとLMP1マシンはさういつたものを目指してゐるのだらうと思ふ。
F1マシンは乘物ではないのだ。