大和但馬屋日記

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鉛筆と波の兎

隙あらば「片隅」語り。「この世界の片隅に」十三年二月の「波のうさぎ」のシーンでのすずさんと哲の鉛筆を巡るやりとりについて。
すずさんはよく落描きをするので不要不急の鉛筆の消費が激しく、それを鬼いちやんには咎められ、すみちやんからも半ば呆れられてゐる樣である。教室で削る限界までチビた鉛筆を見兼ねて、水原哲が江波山の上ですずさんに鉛筆を手渡す。どこですずさんの鉛筆のことを見てゐたかは映畫だけでは解らないが、すずさんが鉛筆を削つてゐる後ろで暴れてゐた哲が、その後すずさんの鉛筆を取り上げて悪戯に使つた擧句、床板の節穴に鉛筆を落して失くしてしまふといふ頴末が原作漫画では語られてゐる。哲はクラスでは鼻抓み者で、殊に女子の間では「水原の姿を見たら全力で逃げるんが女子の掟」であつたらしい。
映畫ではその邊は省かれてしまつたが、すずさんが聲を掛ける際に逡巡したことであまり觸れたくはない相手であることは判る。その哲が鉛筆を呉れた。
「やる、兄ちやんのぢや」
「え、ほいでも」
「ようけあるけえ」
この會話の情報量たるや。哲の「兄ちやん」はもう死んで居ないことはこの前に語られてゐる。原作の欄外にもある「正月の轉覆事故」を手掛りに調べると次の樣な史實に行當る。

宇品沖峠島で舟が沈没
昭和13年1月2日、江田島汽船の宇品−江田島航路みどり丸が年始帰りの客60人近くを乗せて広島県の宇品から江田島へ向かう途中、宇品沖峠島で沈没した。正確な乗客総数は不明だったが、救助されながら死亡した者と漂着死体の合計は32人であった。

特に戰爭とは關係のない、天候不順による不幸な事故だつたのだらう。この中に江田島の海軍兵學校に戻る哲の兄が居たとのことだ。
江田島の兵學校といへばエリート中のエリートで、當時の帝國大學に入るのと同等の難關であつたらしい。後年の哲が納屋で語つた様な「うちは貧乏ぢやけえ、兄ちやんはタダで入れる兵學校に入つた」なんて生易しい話ではない筈だ。相應に猛勉強したのは言ふまでもなく、海苔の手傳ひも免除されただらうし、父母にかけられた期待もさぞ大きかつたのだらう。哲が鼻抓み者になつてゐるのは恐らくその反動で、後に映畫でチラッと映る學校の卒業時の集合冩眞でも哲は一人だけ視線を外してそつぽを向いてゐる。一言で言へばグレてゐるのだ。
「鉛筆がようけあるけえすずにやる」といふのはつまり、それだけ兄が勉強したといふことと、哲自身には不要のものであることを示してゐる。すずさんが「ほいでも」と躊躇つたのは「兄ちやんの形見ぢやのに」といふつもりだつたのだらうが、哲がすずさんに鉛筆をあげようと思つたのは何も優しさばかりではないことも窺ひ知れる訣だ。さういふ屈託が解るからこその「鬼いちやんあげようか?」でもあるのだらうな、とも思へる。兄へのコンプレックスを抱へた者同士の共感がそこにはあつたのだらう。それが戀心の種だつたかどうかはまあ措いておくとして。
鉛筆一本の背後にこれだけの話の種が埋つてゐるから全く油斷も隙もない。