大和但馬屋日記

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恣意的な判断

俺の言葉なんて通じりゃいいじゃんという姿勢は、見方を変えればたとえ正しい言葉遣いでも時代にそぐわない、相手に通じにくいものなら使う必要なしってものだからな。大体さー、昔の言葉が正しいとかいってる連中は何で平安時代とかそれ以前にさかのぼらないのかねえ? そこら辺の正しい正しくないの判断が恣意的過ぎるんだよ。

しっかしまあ、世の中にはとんでもないコードを書く奴がいるものだ。連中はバカでかくて肥満体のコードが丁寧でいいコードだとでも思っているのかな? だとしたら救えないな。後にそのコードを読む側の事を考えてくれよ。

同じ方の書かれた日記から。
言葉なんて通じりゃいいじゃん。それはご尤もな話。これをプログラム言語に擬へれば、「動けばいいぢやん」あるいは「コンパイルが通ればいいぢやん」「仕様を満たしてればいいぢやん」といふことになりますね。仕事として要求されるプログラムつてさういふものだと、知合ひのプログラマに教はりました。
でも、やはりそれだけではないのですよね。動くだけのプログラムでは、移植だのメンテだので後々読む人が苦労することがある。さういふコードを書く連中は救えないとまで仰る。
言葉だつて、同じことですよ。「違ふ」といふなら、それは何とも恣意的な判断だと思ひます。「通じればいい」「動けばいい」で済む話ではあるとしても、だからといつてそれ以上の「何らかの価値」をすべて無碍にはできない。それだけの話であるはずです。
それから、これはFAQに類するものですが、「昔の言葉が正しい」などと言つてゐる人は恐らく居ない、仮に居たとしてもそれほど多くないし主流を占めてはゐないと思ひます*1。開発言語だつて徐々にバージョンアップが為されるでせうが、ある日突然殆どのソースがコンパイル出来なくなる様な大幅な仕様変更が予告なく行はれたら困るでせうし、それらにいちいちパッチを当てる作業をやらされたら不毛だと思ふでせう。かといつて改良を含めたバージョンアップをすべて破棄して、最初期バージョンでのみ通るソースを採用すべきだと誰かが言つたら、「頭をかしいのと違ふか」と思ふでせう。「言葉を正しく」といふのも、それをいふ人によりけりですが、変化は変化として認めつつ済し崩しに壊れてしまはない様に注意しませうといふ程度のものだと受け止めた方が無難だと思ひますよ。
私だつてかういふ仮名遣ひだけれども、別に六十年前の言葉を使つてゐる訣ではない。といふか、六十年前の人がこの文章を見たら「何だこれは」と思ふに違ひない。保存できるものは保存しつつも現代的な変化を許容した言葉とは、例へばかういふものなのですよ、と。別にあれこれ一篇に変へる必要なんてないし、実際そこまで日本語は変化してませんし、今後もしないでせう。ただ、六十年前にリリースされた「現代かなづかい」といふバージョン(と、その四十年後にリリースされた「現代仮名遣い」といふリビジョン)は、出来の悪い糞仕様であるなあといふ人が(私を含めて)居る、と。開発言語は糞だと思つたら別の言語に乗換へればいいかもしれないけど、日本語はさういふ訣にいかないから困つたものです。
新聞などで目にする「言葉の乱れを憂へる」類の記事なんかは、さうですね、「んだよー、また大した機能が増へた訣でもないのにアップデートなんかしやがつてよー、面倒くせえ」といふ誰もが洩らす愚痴程度の取るに足らないものだと思つて無視してれば良いのではないでせうか。
ああ、別に「我々に随へ」といふつもりで書いたのではありません。味噌のつけ方が少し筋違ひの様に思はれたので私なりの道理を示した次第です。

  • 2007年01月29日 smallball 参考資料, 言及 なるほど , そう云う事か , ただプログラムは「コンパイル通れば好い」のが「意味が分かる」ではないよ
  • 2006年12月13日 funaki_naoto ことば
  • 2006年12月13日 mhrs

*1:もし居たとしたら、私もそれには反対の立場をとります