大和但馬屋日記

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気のおけない話せる友達 それよりもお金が大切ですか

銃姫」の第六巻を読んでゐると、彼の言うように気のおける者同士でいっしょになれば云々といふ記述があつた。もちろん、前後の文脈から判断するに「気のおけない者同士で」といふ意味で使つてゐるのである。かういふのは一に校正の、二に担当編集の責任でチェックすべき事柄だと思ふのだが、知つてゐて見逃したのか、誤りに気付かなかつたのか、それとも指摘されても作家が押し通したのか、はたまたその逆で編集者がさうさせたのか等々、気になるところだ。
とはいへ、「気のおけない」といふ表現自体にも問題はある。何も知らずにこの言葉に接すれば、そこに警戒のニュアンスを感知しても仕方がないとはいへるからだ。これがもし「気おけない」であれば誰も疑ひなく警戒の意味として受け取るだらう。
「気のおけない」といふ表現が何時頃から何処で使はれ始めたものかは浅学にして知らないけれども、その言回しには如何にも東京方言に特有の少し捻くれた気取り、さういつて悪ければ機微、あるいは粋がりのやうなものを感じる。だから、その空気を生得的に共有しない自分はあまりこの言葉を用ゐる気にはなれないし、かういふ言葉を後生大事に守ることが「美しい日本語」とやらの維持に繋がるとも思へない*1
既にある表現の形を、意味をそのままに正反対の言葉で表すべきではないから「気のおける者同士で」といふのは全く許容できないけれども、「正しくは『気のおけない』です!!」といつて誤りを指摘すればそれで良いかどうかは検討の余地があるだらう。言葉を積極的に殺すべきでないことは承知の上で、しかし誤用に伴ふ混乱のリスクを背負つてまで「気のおける/ない」といふ表現を使つてよいのかどうか、一度は考へてみてほしいと思ふ。

  • 2006年02月17日 funaki_naoto 『[ことば]「その言回しには如何にも東京方言に特有の少し捻くれた気取り、さういつて悪ければ機微、あるいは粋がりのやうなものを感じる」』

*1:蛇足ながら、「美しい日本語」なるものをワシは支持しない。美醜を特定地域の方言を基準に決めるなど言語道断である。「正しさ」の基準としての標準語は必要であつても、それと美醜の価値判断とは切離されるべきだ