大和但馬屋日記

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常用漢字見直し

国語に関するさまざまな問題点を検討してきた文部科学相の諮問機関・文化審議会の国語分科会は24日、パソコンなどの急速な普及で、国民が目にする漢字が増えていることを受け、常用漢字表を含む漢字政策の抜本的な見直しが必要だとする報告書案をまとめた。
(中略)
一方、報告書案では、機会が減っている漢字の手書きについても、「習得に大きく寄与し、筆順も確実に覚えられる。日本の文化としても捨ててはいけない」と、その重要性を強調した。

賭けてもいいが、この手書き云々のくだりには石川九楊氏の息が強く掛つてるとみたね。石川氏のワープロ批判は一般性を欠く(書家の価値観としてはもちろん尊重すべきだが)。
手書きによる文字学習が全くの無駄だとは言はないが、「漢字練習帳」なんぞに限られた種類の文字を何十回も書かせたところで意味はない。書いたことのない文字、見た事のない文字は結局覚えられないからだ。まして、その様にして字を覚える行為の中で、いちいち石川氏が主張するやうな魂を込める作業などが行はれる筈がない。字を書く際にどの様な態度で臨むかといつたことまで教育すべきなのは書家の世界の中だけだ。
そんなことに時間を費やすくらゐならば、文字の様々な用例とか、偏と旁による意味体系の成り立ちをきちんと学習させるべきだ。さうすれば、よほどのことがない限り読めない文字などはなくなる(初めて目にする漢字でも正確ではなくとも大体の意味を掴むことができる程度には漢字は体系化されてゐる)。しかし、簡略化して体系を破壊された現行の新字ではその役には立たない。
結局、文化審議会は誤つた方向に進まうとしてゐる。常用漢字表など見直すまでもなく、廃止すれば済む話なのだ。「情報化」云々など全く関係がない、といふか「昔間違つたことをしました」とは建前上言へないから口実に持ち出してゐるだけだ。
といふか、うちの母校にいつの間に「文字文明研究所」なんつふものが。
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