大和但馬屋日記

はてなダイアリーからの移行中

仕事の愚痴

大化改新より昔の話なのに台詞で「天皇」て‥‥滅茶苦茶気になつてコンテの筆が進まない(たぶんそれは関係ない)。
あと、さういふ時代だから資料が少なくて絵にし辛くて困る。簡単に手に入る中で最も信頼できる資料が飛鳥の朝廷―古墳(大和)時代・飛鳥時代 (小学館版学習まんが―少年少女日本の歴史)だからなあ。他の出版社の同種の学習まんがは総じて考証が駄目すぎるので、参考にするなら小学館版を。例へば聖徳太子が皆が知つてる旧一万円札の肖像に準じた服装に描かれてゐる様なものはすべて駄目。あと、キーワード:「乙巳の変」の画像に使はれてゐる絵とか。これなどアメリカの勘違ひ忍者映画と同じくらゐ酷い絵なのだ。
では信頼できる資料は何よ、といふと高松塚古墳壁画とか天寿国繍帳くらゐしか現存してないから悩ましい。

「あなた」の使ひ方

他の人のコメント欄に少し書いたことだけど、一往メモとして残しておかう。
馴れ馴れしい広告文体の御蔭で麻痺してゐる人が今では少なくないだらうが、「あなた」は万能に使へる敬称ではない。
分り易くいふと、「君」と呼びかけても差支へない相手に対してのみ使つてよい言葉だ。当然目上の人には使ふべきでないし、さほど親密でない相手に敬称のつもりで使つて相手が怒り出さないといふ保証はどこにもない。そして、その場合怒つた相手の方が正しい。
google:あなたを見るまでもなく、世の中には不特定多数に向けた「あなた」が氾濫してゐる。これに代る二人称代名詞が日本語には存在しないから、ある部分で止むを得ない変化であることは認めざるを得ないが、一対一の関係の中で同じ様に使ふべきでないといふのはまだそれほど廃れた感覚ではないだらう。買ひ物の最中などに店員に「あなた」と呼ばれて平然として居られるだらうか。
まあ、砕けた形の「あんた」に置換へてみれば分り易い話だ。

動揺といふよりは困惑かなあ

涼宮ハルヒの動揺(谷川流,角川スニーカー文庫) - 大和但馬屋読書日記 - bookグループ

涼宮ハルヒの動揺 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの動揺 (角川スニーカー文庫)

六巻目。短編集。ん〜んん?
収録された五編が総じて隙間埋め以上の何かではなく、つまり一冊丸ごと隙間だつたといふことだ。ピンポイント的に受けた部分がない訣ではない。しかしそれも本巻においてはほぼ一箇所だけ、「ヒトメボレLOVER」のP.124からP.125、口絵にもなつてゐる部分だけだつた。
朝比奈ミクルの冒険 Episode00」と「猫はどこへ行った?」に至つては、語り手や作中人物によつてことあるごとにエクスキューズを出されまくる文章を読まされる苦痛といふものについて考へるべきだと思つた。前者は端的に読む時間の無駄だし、後者は虚構内虚構であることを打ち出すならレイヤーがもう一つ必要だらう。読み始めからバレバレの答へをそのまま出してどうする。「ハルヒ」はそれをやつてのける作品だと思ふのだが。
五巻目の後のこの巻ではキツかつた。順番が違へば少しは違つた感想になつたかもしれない。まあ、これらを伏線としてまた大仕掛けを見せてくれるなら文句はないが、かういふ期待の仕方は作品のためにも良くない気がする。そろそろ締めて欲しいかな。

はてな語り解禁

コメント欄で中途半端に絡んでしまつたので、はてなについて云々するのをやめるといふ自分縛りを一時的に解除します。自分で縛つたり解除したり、まるで馬鹿のすることですが馬鹿ですのでご容赦を。
「多分、はてなゲマインシャフト的なコミュニティである」という読みをされると、それは紹介したyukattiさんの記事の意図に反しますし、紹介した私としてもミスリーディングをした責がありますので、とりあえずその点は忘れてください。勝手なことですがごめんなさい。
はてなに何故アクセスコントロールが必要と考える人がいるか、という点についてのみ私なりの理解の範囲で説明を試みます。
まづ、スウプさんがそれは( ;´Д`)いやぁぁぁぁぁー! - ウスイ スウプの日記で仰つた「はてなの良い所って、Textが基本にある」といふことについて、全く同意します。はてなのサービスのうち、「ダイアリー」と「グループ」に関してはその通りだと思ひますし、単純なmixi化には私も反対です*1
ただ、「アクセスコントロールしたい」といふ欲求がmixiの一見さんお断り的なノリを重視していると思うといふのが私にはどうも違ふ様に思へるのです。といふか、重視するのがそこであれば、その人は始めからmixiに行つてると思ひます。
上手く表現できる自信がありませんが、「アクセスコントロールできる場が欲しい」といふのと「今使つてゐるサービスをアクセスコントロールできる様にしてほしい」といふのは、出発点が違ふのではないかと。具体的には、一年前のはてなダイアリーユーザーならまだそこまでの欲求は多くなかつただらうし、二年前ならば思ひつきもしなかつたでせう。はてな自身が「肥大化いやさ拡大」と表現したこともあるくらゐで、利用者にしてみれば「そんなつもりでユーザー登録した訣ぢやなかつたのに」と思はず嘆息するやうな勢ひでサービスの幅が広がつてゐる。嫌なら他を使へばいいと言ふことは可能ですが、現実問題として他に代りになるものがない。検索代行サービス、ブログ、アンテナ、RSSSBMと個々に切り離せば他にいいものは幾らでもあります。でも、それらが繋がつてゐるからこそはてなの良さがあるわけで。
一方で、それを単一IDで扱ふのは難しくもなつてゐる訣です。私の様に単純に「ブックマークはもう使はないよ」と宣言するのも似たような話で、アクセスコントロールといつても、結局は自分をコントロールする手段が欲しいといふことです。それをシステム側に望むのはさほど不自然だとは思ひません。さういふジレンマが現実に存在するのであれば。そして、はてなにはさういふことを要望してもよいと期待する余地がある。勿論アクセスコントロールの手段が実装されたからといつて過信はできませんが、多様なサービスがどんどん追加されつつあるはてなだからこそその様な要望が出てくる必然性があつたのだと、私には思はれます。
これは蛇足ぽいですが、私がはてなに要望したりはてなのことをどうかう言ふのを止めようと思つたのは、昔から続けてきた日記を書くといふ行為を都合よく続けるための仕組がほぼ望む形で整つたと判断したからです。だから私はこれ以上何も望まない、従つてアクセスコントロールとかも「私には」必要ないけれど、ン万人単位の「望むこと」がそれぞれ異なる以上、その部分集合を抽出するアクセスコントロールといふ概念も「全体には」必要なんぢやないかな、と。少なくとも仕組はあつていい、それを利用するか否かはユーザー次第。今までのはてなと同じです。mixiの様に、そこを否定したらサービスの利用すらできないといふものではないと思ひます。
さういふ欲求が「書き手の利便性にすぎない」といふ指摘はその通りですが、でもそれは別の問題だと思ひますよ。優れた出力がダダ漏れの結果によるものか慎重なコントロールの結果によるものかもまた別でせう。もう一つ、「ウラオモテ」については、確かに昔からさういふ嫌らしい一面はありますが、昔からあるといふことは今でもあるし将来も変らないといふことでもあります。今でも個々のサービスにはプライベートモードがある訣で、でもさういふもので大雑把に区切れるほど(自分といふ)人間は単純ではないよ、といふ話かと。最後は機微といふやつになつてしまひますか、ね。
とりあへず、纏まつてる気がしませんが、以上です。

*1:別にmixiが嫌ひな訣ではなくて自分でもごくささやかに利用してゐますよ