簡字体、繁字体、当用漢字に略字に別字にその他種々様々な漢字と呼ばれる文字。とても今更漢字文明圏の字体の統一なんぞは無理であろう。それは分かるのだが、省略書体を大々的に採用した、過去の各国の文字政策は、返す返すも残念なことだと思う。
— RoydAndo@応託庵釜利休翁 (@royd_ando) 2017年8月31日
文盲対策であるとか、煩雑性の効率の悪さだとか、様々に尤もそうな屁理屈を並べ立てて、漢字の簡略化を各国で勝手に進め来たったせいで、極めて遺憾なことであるが、意思の疎通の点で過去100年の間で今が一番北東アジア圏の乖離が進んでしまったのは、誰の目にも明らかである。
— RoydAndo@応託庵釜利休翁 (@royd_ando) 2017年8月31日
殊に日本人である我々がこれを主張するのは道義的に難しいところがある。漢字文明圏の統一は即ち大日本帝國の掲げた八紘一宇、大東亞共榮圏といつたものを聯想させかねないからだ。むしろ、それらからの脱却の爲に各國が各々に獨自の文字の簡略化を推し進めたといふこともできよう。他國はいざ知らず、日本においては「敗戰の反省」がそれらすべてを正當化してしまった。文字を正字に戻さうなどと言つても「戰前への懷古」の一言で忌避されてしまふ。
日本に限らず、爲政者が文字を改造しようなどといふ時、その動機は過去を否定してみせることで現在の己の支配を正當化することにある。それを獨自の形に定めて近隣との分斷を企てるのも然り。如何に尤もらしい理由を竝べたところで、政治的に弄られた文字や言葉はどこまでも政治の産物であり、政治とは文化を破壞するものである。政治的な文化保護なんてものは、破壞の一側面を綺麗に取繕つてゐるにすぎない。
文字の分斷がかうも順調に進んでゐなければ、東アジアの在り方も少しは違つただらうか。どうあつても排外主義者は生まれただらうけれども。