大和但馬屋日記

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シン・ゴジラ」について考へる上でもう一つ確かめておきたい映畫、「フランケンシュタインの怪獣サンダ対ガイラ」を改めて觀ましたよ。畳んでおく。
「サンダ對ガイラ」は「フランケンシュ夕インの怪獸」の名が示す如く若干恐怖映畫の様相を呈してゐる。人を手にとつて喰ふ怪獸といふ描冩は直截的すぎるとしても、モチーフがフランケンシュタインといふこともあつてかなり「ベタ」な恐怖描冩があちこちにある。さうした要素だけを取出せば、どちらかといふとキワモノ臭のする映畫だとは思ふ。
しかしその一方で、本作は「怪獸對人類」とひふテーマについては比較的竪実な描冩を貫いてゐる。メーサー殺獸光線車*1といふ架空の超兵器こそ登場するものの、作戰の段取りとその進め方はほぼ現實的といつて良いものであり、それで一度は完全に勝利する處までガイラを追詰めてすらゐる。ここまでの「人類の手で生れた惡い怪獸ガイラが人類を脅かし、人類の手で倒される」といふ従來のシンプルな枠組の上に、もう一體の同族の怪獸サンダが現れてガイラの窮地を救つてからが本作の獨自性の高いところである。
サンダの方が人の手で育てられた「話の判る」怪獸であること、ガイラはサンダの組織片から増殖して育つた今で云ふクローン體であること、ガイラに下手な攻撃を與へては飛散した肉片からさらに多数の恐暴なフランケンシュタインの怪獸が発生する危險性があることなどが明らかになる。
サンダが人類の味方であるとして今後の研究の爲の保護を求めるフランケンシュタイン研究者と怪獸は怪獸であるとして攻撃を旨とする自衛隊との對立も描かれるが、それも別に自衛隊脳筋馬鹿であるといふ單純な描冩ではなく、研究者の側にも後ろ昏い點があつたり自分勝手と受取られても仕方のない理窟を唱へたりで、觀てゐるこちらもモヤモヤしてしまふ。この邊り、コミック版「機動警察パトレイバー」における廢棄物十三号のエピソードに通ずる部分が大變多い。細胞組織の飛散による個體増殖の危險性の指摘は勿論「シン・ゴジラ」を想ひ出す。
サンダは人類に害なすガイラに對して怒り、計らずも自衛隊と共闘することになる。最後はサンダとガイラが戰ふ最中に何故か海底火山が噴火して兩者ともそれに巻込まれる形で姿を消すといふ終り方で、「ラドン」と続けて観たせゐもあつて「また火山オチかよ!」と苦笑せざるを得ないところではあつたが、人事を盡して戰つた後はもう天災くらゐしか頼る術はないのだ。結末のともすれば呆氣ないところも本多猪四郎監督の持味ではある。
多少の捻りを加へつつも基本は「ゴジラ」「ラドン」に共通する構造で、かつそれらの中でも人類側が比較的健闘するのがこの「サンダ對ガイラ」であり、描冩も結末を除けばかなり丁寧だと思ふ。この「サンダ對ガイラ」までに東寶だけで「ゴジラ」映畫が六本、それ以外の特撮作品が十本超、既に人類は單なる怪獣の襲來に留まらず、宇宙人の侵略や海底帝國等の異文明との接触、怪獸同士の大格闘などありとあらゆる危機を經驗してゐる。それらの雑多な要素から怪獸同士の格闘のみを取出して、あとは「原點」に立戻つたのがこの「サンダ對ガイラ」だと言つて良ささうだ。
シン・ゴジラ」でよく言はれる「これは怪獸映畫ではない」式の物言ひがどうも納得いかなくて、何故ならそれらの評價は精々ゴジラシリーズか平成ガメラシリーズくらゐしか念頭に置いてゐない様に思へるからだ。俺だつてすべての怪獸映畫を隅なくチェックしてゐる訣ぢやないけれど、東寶自身が何度も「ゴジラ」をリブートしようとして、しかし東寶自身が最初の「ゴジラ」を無かつたことにはできないから他の怪獸でそれを行つてゐたといふ事實があるといふことは忘れないでおきたいし、「シン・ゴジラ」が「今までと違ふ」映畫であることに異論はないとしても同じくらゐに今までの怪獸映畫つて奴も貴方の思つてゐる「今まで」とは違ふかもよ? とも言つておきたい。
シン・ゴジラ」が今の世にああして我々の前に現れてくれたことには感謝しかないけれど、あれがああいふものとして出來てくるにはそれなりの時間が必要だつたのだし、その間に二十數作に渡つて色々作つてきておく必要もあつたのだ。その全部を觀る必要も愛する必要もないけどさ、それらを十把一絡げにして馬鹿にするのは勘辯してほしいのだ。俺は俺のテーマとして、未見の本多猪四郎作品をきちんと觀ておきたいと思つた。
そんな氣持を噛絞めながら「サンダ對ガイラ」のディスクを「ゴジラ2000ミレニアム」に入換た。




根室のシーンだけ觀て幸せな氣分で寝た。怪獸としてのミレゴジはやつぱり最高だ。初代やシンゴジよりも? よりもだ。

*1:これは後のゴジラシリーズ等での呼稱で本作では「殺人光線」と呼ばれる