大和但馬屋日記

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yms-zun2009-05-13

AT-Xで「咲-Saki-」の第一話を見たらまるで「頭文字D」と同じ話の導入で、ああなるほど咲は豆腐屋の倅なのかと思つた。そこは原作読んだ時点で気付けよ。原作ではどんな状況でも点数を±0に帳尻合せしてしまふ主人公の凄さ(‥‥を話として成立させた漫画としての巧さ)に普通に感心してしまつたのでそこまで考へなかつたのかな。で、そこの「凄さ」の部分はアニメではやつぱり描写しきれんかつたなー。何がどう凄いのかを咀嚼しながら読める漫画と違つて、「凄い凄い」と雰囲気で盛上げて最後は派手なエフェクトの演出で押し切るしかないアニメでは表現は無理だ。観てゐる側としては「登場人物が凄いと言つてゐるから凄いといふことにしておく」以上の感慨がない。もうかういふ時代だから、地デジの文字情報を使つて「どこがどう凄いのかをリアルタイムで徹底解説」とかやつてもいいんぢやないか。いやスカパーで観てたら意味ないか。でもまあ、さういふ映像表現としての邪道を追求してみてもいいと思ふ。元より映像表現で真向勝負してゐる作品でもないならば。あとはさうだな、視聴者が任意に入力できる字幕を流すとか。

「The Dishwasher」SAMURAIをクリアして全実績をロック解除。よく遊んだ。頑張つた。

ネットブックは自宅に向かない/インターネットできない」論。値段の割に性能が云々。何だかなー、さういふ話でもないのになー。例えばよ、十年前、GBAが出るかどうかといつた頃に「これからは家でゲームする時も携帯ゲーム機がメインになる」とか言つたら、皆鼻で笑つたと思ふのよ。任天堂ですらそんなことは考へてなかつたと思ふ。で、今はどうよ。「携帯ゲーム機」に対して「据置ゲーム機」といふ呼称が必要なほどにゲーム機の支配関係は入替つてしまつたぢやないか。さながら「ケータイ」に対する「イエ電」「固定電話」の様に。携帯ゲーム機では据置ゲーム機と同じ様には遊べないが、多くの人はそれでいいと思つてゐるし、だからこそ携帯ゲーム機ならではの遊び方も開発されてきてゐる。「PCでインターネット」も同じだらう。現世代ではまだ無理があるとしても、スペック的な問題はいづれ解決されるに決つてゐるのに、なぜPCだけ今のままで居られると思へるんだい?