大和但馬屋日記

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手続きの簡略化がもたらしたもの

なるほど、まったく逆の機能を持った装置が隣り合っていて、同一の操作で機能するというのはまったくもって筋が悪いといふ考へ方もあるのか、と思つたところを出発点に色々考へてみた。
アクセルとブレーキの踏み間違ひによる急発進事故は、AT車が一般に普及してからこちら、絶へ間絶え間なく起つてゐるものと考へてよからう。オートマ限定免許なるものができてからもうすぐ二十年くらゐになるのかな。
まづ、前提として、本来的な自動車の仕組として考へた場合、アクセルとブレーキはまったく逆の機能を持った装置ではなかつた。アクセルはエンジンの回転数を上げるための装置であり、ブレーキは車輪の回転を抑制する装置である。ただアクセルを踏んだだけでは車は前に進まない。クラッチ操作によつてエンジンと車輪を接続しない限りは、自動車は前に進まないのだ。エンジンの回転数とエンジンに掛る反作用の強さを巧くとりなしてやらないと、エンジンの方が止つてしまふ。自動車を発進させる時はアクセルとクラッチの両方の操作に慎重にならざるを得ないから、「うつかり誤操作で急発進してしまふ」といふ事態は原理的に起り難い。だから、アクセルとブレーキが隣り合つてゐても何の問題もなかつたのである。
AT車は、煩はしいクラッチ操作を無くして、アクセルペダルの持つ意味を「自動車を前進させるための装置」に変へてしまつた。代替的なフェールセーフとして「ブレーキペダルを踏んでゐないとエンジンを始動できない」といふ機構が採用されたが、これでは根本的な解決になつてゐないのは明らかである。
では何故アクセルとブレーキがペダルなのかといふと、それは機構的な必然である。内燃機関の燃料噴射弁を開閉したり、ブレーキの制動圧を調節するためのワイヤーを引つ張る梃子として、扱ひ易い形になつてゐる。シトロエンDSのやうに、油圧システムを利用したブレーキのために梃子でなくボタンのやうな「ペダル」を装備した自動車もあるにはあるが、操作上の違和感から結局廃止されて梃子の形を模倣せざるを得なくなつたといふ例もある。今後内燃機関が全廃されて電気駆動の自動車ばかりになれば、必然的に「ドライブ・バイ・ワイヤ」の時代になるだらう。その時に、内燃機関故の必然から生れた操作形態から脱却できるだらうか。
そもそもあのペダルが唯一無二の正解かといふと、それはよく分らない。とりあへず、人間が使へるのは両手両足だけであり、手が舵取りで塞がつてゐる以上は足で速度を調節するのは自然なことであるとはいへる。しかし、足で速度を調節しなければならない動力付きの乗物なんて、実はそれほど多くはない。オートバイは右手だし、飛行機や船舶は速度を司るレバー類が舵とは別のところに付いてゐる。鉄道車輌も同様だ。
道路を走らない乗物が何故さういふ操作になつてゐるかと考へるに、細かい速度調節の必要がない、あるいは原理的にそれが不可能な乗物だからだらう。いづれも慣性の影響が運動能力に対して多大に影響しすぎる乗物だから、急発進も急停止も起得ない。原理的に、「鈍い」乗物なのだ。これはこれで全く逆の危険が発生する訣だが、それについては割愛する。
対して、道路を走る乗物は動きが俊敏であることが求められるし、原理的にもさうなつてしまふ。素晴らしきかな摩擦力。これに対応するために、最適な制御方法としてフットペダルが発明されてしまつた。自分は、根本的な問題はここにあると思ふ。もつといふと、自動車といふ乗物が「簡単に走り出せてしまふ」「個人が自由自在に運用できてしまふ」ことがそもそもの問題。物理的にも社会システム的にも自由でありすぎる。そのくせオートマチックトランスミッションにより、操作そのものが簡単になりすぎた。これが良くないのではないか。
自動車は、もつと走らせるまでが面倒な乗物になるべきだと思ふ。一トンを越す質量を持つものが運動エネルギーを得るまでの手続きを、今のAT車は簡略化しすぎてゐる。MT車の時にあつた「走らせようとする明確な意志」までが不要となつてゐる。このことを、もつと問題視すべきなんぢやないのかと思ふ。まづここをどうにかしないと、たぶん同様の事故はなくならない。