大和但馬屋日記

はてなダイアリーからの移行中

感想としての「共感」

yms-zun2007-06-25

ある人のダイアリーで、鑑賞した映画作品に対する感想がすべて「共感」といふ言葉で表現されてゐるのがあつて、それをみて何となく違和感を持つた。いや、その感想が駄目だといふつもりは毛頭ないんだけど、少なくとも自分とは物の見方が違ふな、と。ああ、でもここで出た「違和感」といふのはまさに「共感」の裏返しなのだから、やはり「共感」とは強い評価軸なのだな。それは納得。
ある作品を見て「共感できた/できない」と感じたときに、それは何に対する共感なのかは一概には言へなさうだ。主人公に対してなのか、主人公格以外の作中人物の誰かなのか、監督か、脚本家か、あるいはその作品を共に見た他の鑑賞者か、それとも評論家や世間の反応か。
そもそも作品自体が鑑賞者の共感を求めてゐない場合もあつて、はじめに挙げたその感想の対象である監督の作品はその傾向が強い印象を自分は持つてゐるので、「共感」といふ強い評価軸を持つてその作品にあたると外れる確率は高いだらうなと思つたのが自分の抱いた「違和感」の原因かな。