大和但馬屋日記

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我ながらひつこいとは思ふけど

yms-zun2006-08-29

ARIA the NATURAL」二十一話がどうしてもうまく自分で消化できないのでもう少し愚痴垂れる。
突然ネオ・ベネツィアとらうま町に、灯里が改蔵か羽美か下手したら地丹でアリシアすず部長に見えてしまつた。もちろん「かってに改蔵」最終話を想定してのことだ。うわ、最悪だ。つか「かってに改蔵」の固有名詞にまめにキーワードリンクが発生することに絶望した!
まあそれは冗談といふことにして(冗談ぢやないぜ全く)、しかし佐藤順一といふ人は主人公のヒロインを何か途方もないものに選ばれた特別な存在に仕立て上げるのが好きなんだなと思つた。
灯里は火星と意志を疎通させたことになつてる(よく考へたら第一期からその萌芽は見えてゐる)し、ファインとレインは宇宙の授けた光の答へとか言つちやふし、苗木野そらはステージに選ばれて他の人に見えないものを見てしまふし、あひるは物語の主役たるべくそもそもが異質な存在として「選ばれて」ゐるし。「魔法使いTai!」のことはよく覚えてないけど、ディレクションを勤めた中でかういふ例に該当しない作品の方が少ないんではないか。つか、最近だと「ケロロ」くらゐしか例外はないのではないのかといふ気が。出世作の「セーラームーンからして例にジャストミートだし。
佐藤作品の多くの主人公は落毀れだつたり生来の他所者であるのが「努力する才能」によつて何かに「選ばれ」、それにより存在なり立場なりが正当化されるのけれど、一方で早々と「選ばれてゐる」ことに甘へた展開にもなりがちで、何らかの苦難に見舞はれても見えざる手に何となく救はれてお終ひとなるケースが多い様に思はれる。また、その場に居ることを「許される」といふことにやけにナイーブである印象も強い。
作風としてさういふものを持つてゐることは特色としてありなのだらうけど、「ARIA」でまでそれを使ふかね。それは要らぬ手垢といふものだ。もう少し灯里が具体的にプリマに近付く展開を見せるのならまだしも、原作がなかなかさういふ話の進みにならない以上はどうしやうもないし。
「ARIA」が終つたら「Gyu!」は最後まで付合ふかもしれんし「ケロロ」も暇な時に流れてたら観る程度のことはするけど、もうそれ以上はいいかなといふ気になつてきたよ。