大和但馬屋日記

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シューティングゲームにおける戦闘美少女の歴史

yms-zun2006-06-13

whirl -> 200606経由で読んだシューティングゲームに登場する美少女達の歴史――フェリオスからエグゼリカまで(汎適所属)といふ記事が、当時を知る者として、といふよりもむしろ一人のヲタとしてあまりにあまりだと思つたので、二言三言‥‥ではとても済まんかつた。いいですよ誰も読まなくて。
経由元の方も(たぶん)控へ目に指摘されてゐるけれども、何といふか捨象されてゐる事実が多すぎて、ほとんど歴史の捏造ではないかと思はれるレベルに達してゐる。たぶん結論の様なものが先にあり、それに合ふ「事実」のみを拾ふといつたどこぞの社会学者的方法論で書かれてしまつたものではないかと考へる。
件の記事に対して「『バーニングフォース』もあつた」「『聖戦士アマテラス』を知らんのか」云々といつたツッコミはいくらでも可能だが、それ以前に枠組の認識が全く同時代的でない様に感じたので、その辺を重点的に突いてみる。

大前提:「フェリオス」の生まれた状況

件の記事は「アーケードのシューティングゲーム」に焦点を絞つて書かれてをり、その出発点に「フェリオス」を据ゑてゐる。切口としてそれはもちろん有りだけれども、それはあくまで「現象」にすぎないのであつて、それが現れるに至る背景や過程を無視してはいけない。
フェリオス」を画期とするならするで、それ以前の作品群がどうであつたか、技術的にどうだつたか、プレイヤーにどう受容されたかを考へながら件の記事を読むと、自分が生きた時代がまるでフィクションであつたかの様にすら思はれてくる。
ともあれ、以下に井の中の蛙の見た現実を列挙する。

事実、「フェリオス」は画期的だつた

シューティングゲームにおいて、ゲーム本体と全く関係なくヒロインが攻め苛まれるビジュアルがフルボイス付で挿入されるといふ例は、それまでになかつた。しかしそれが突然変異的な発明であつたかといふと、全くそんなことはないのだ。

ロンよりしょう子さん

フェリオス」の手法は、それがリリースされるより何年も前から存在した「脱衣麻雀ゲーム」の手法を真似たにものであるにすぎない。もつとはつきり言へば、「スーパーリアル麻雀PII」なくして「フェリオス」は無かつただらう。「PII」からエロを抜いて、麻雀をSTGに変へ、もつともらしいストーリー性を与へたもの。それが「フェリオス」の実体であり、当時のゲーマーは正しくその様に受容してゐたと思ふ。では、このことにどんな意味があつたか。

'80年代のゲーセン

'80年代後期のゲーセンと言へば入口付近に大型体感ゲームがあり、テーブル型の筐体がフロアの中央にずらりと並び、それらには最新の売れ筋作品が優先的に収められ、壁際に少し古いゲームが、そしてその一角に脱衣麻雀ゲームが集中して並んでゐるのが一般的な風景だつたと思ふ。あ、「フェリオス」の頃にはアップライト筐体の割合が少し増えてたかな。
で、脱衣麻雀とそれ以外のゲームは、基本的に没交渉だつた。脱衣麻雀系のメーカーはシューティング等の普通のゲームを作らないし、逆もまた然り。両方のジャンルに本格的に手を出してゐたのは日本物産、セタ、ビデオシステム等の一部メーカーに限られた。特にセガタイトーナムココナミ等の大手やカプコンアイレムSNKジャレコ等の中堅が大つぴらに脱衣系ゲームに手を出すことはまづ有得なかつた。それはもちろん、企業イメージを気にしてのことだらう。改定風営法の余波もあり、業界的にその辺りのことについては神経質だつたと思ふ。
だからこそ、「フェリオス」を「あの」ナムコがリリースしたことが画期的だつたのだ。

引かれた一線

繰返すが、当時のゲーセンにおいて、脱衣麻雀とそれ以外のゲームには目には見えない一線が引かれてゐた。もちろん両方のジャンルのゲームを分け隔てなくリリースするメーカーがあれば両方を遊ぶゲーマーも居たが、大まかに見ればそれぞれは異質であり、かつどちらもゲーセンに欠かせないものだつた。
ゲーセンに置かれた脱衣麻雀は、当時大つぴらに許されたエロのひとつだつた。スポーツ紙の風俗面や「フォーカス」等の週刊誌のエロ記事と同程度の、「ここは少しばかり下品な領域ですよ」と自ら宣言することでアングラに潜ることなく居場所を確保できた、さういふ種類のものだつた。だから脱衣麻雀に登場するキャラ絵は工藤静香などのアイドル写真の模写やナウシカやらんま等のアニメキャラのパロディが主流で、どこかしら「そのゲームの外(=現実社会)」との繋がりを確保してゐた(言換へれば、生々しかつた)。前述の「PII」は、そんな中で比較的早期からオリジナルの架空キャラを立てたことに先進性を見ることができるが、それでも「麻雀」といふゲームそれ自体と、「脱衣」といふ行為の俗つぽさによつて現実社会に充分繋ぎ留められてゐたといへる。故に、「PII」でしょう子を脱がせることに熱心なプレイヤーが居ても、健全な意味で「やらしい」とは思はれても、「架空のキャラに入れ上げるヲタキモーい」などとは思はれなかつただらう。
つまり、脱衣麻雀は一般社会から見て、実は線の「こちら側」にあつた。

一線を越えた存在

麻雀に比べると、STG等はゲーム自体のフィクション性が極めて高い。「1942」程生々しいモチーフはむしろ稀で、「インベーダー」以来抽象性の高い内容が主流を占めた。もちろんメモリ等のリソースや処理能力の問題もあるが、ゲーム自体が嘘くさすぎて生々しい要素を持ち込みにくかつたのだ。麻雀には対戦相手たる人間が不可欠だが、STGの敵を人間にするとどうしても殺伐した内容になるし。
そんなフィクション性の高いゲームに具体的なストーリー性を持ち込むと、例へば「ゼビウス」の様に現実と乖離したSF的なモチーフになつてしまふ。つまり、最初から極めておたく的にそこそこハードルの高い世界になつてしまふ訣だ。'80年代後半からは不必要なほど凝つた世界設定がアーケードゲームに与へられることが当り前となつて今に至るけれども、おたく的資質を持たないプレイヤーはそれら設定等を知らうともしなかつた。ゲームのそんな深みに入れ上げるのは一線を踏み越えた「おたく」だけだつた。「おたく」といふ呼称すらまだ広まつてゐない時代の話だ。

線の彼我

一線を踏み越えた「おたく」が大切にする世界は、一般社会から見れば「恥かしいもの」だつた。それは、例へば「女主人公もの」に対する風当りにも象徴された(やつとここにきたか)。
アニメで例へれば「ナウシカ」は良い隠れ蓑だつたが、そこで勢ひ付いて「プロジェクトA子」なんぞをひけらかさうものなら一発でアウトだつた。だから、「おたく」の側も自らの趣味に没頭しながら引かれた一線を常に意識してゐた。
そしてもちろん、少しづつではあるがその線を突き破らうとする挑戦が行はれた。一番手取早いのは飛行機のパイロットを「実は女性」とすることである。線の向うの一般人にはただの飛行機と思はせておいて、おたくは秘かに設定を弄ぶ。如何にも昏い情熱だが、だからこそヲタはヲタなのだ。
1983年の「ゼビウス」でさへ、その設定にイヴといふ女性型アンドロイドの姿が見える。これが即ちプレイヤーの操るソルバルゥパイロットといふ訣ではないけれども、関係が無いとは言はせない。飛行機型のSTGの自機パイロットが相当の割合で女性に設定されてゐるのは由緒正しい男ヲタの妄想の産物であり、これを考慮の外に置くシューティングゲームに登場する美少女達の歴史――フェリオスからエグゼリカまで(汎適所属)の記事は、一体それで何を導きたいのかすら分らなくなる。

妄想力の顕現

何とかして「活躍する女性」を出さうとする努力は、フィクション性の高すぎるSTGばかりでなく人間キャラを出し易いアクションゲームによく顕れた。ジャンルに拘らずに例を挙げるならばメジャーなところで「奇々怪界」「フェアリーランドストーリー」「アテナ」「サイコソルジャー」等。余談だがタイトー熊谷研究所の「可愛いもの」への尽力は特筆ものだ。アニメ「ダーティペア」の影響の濃いLDゲーム「タイムギャル」も忘れてはならない。
もう少し一般寄りのスタンスとして「複数キャラの一人が女性」となるといくらでも例が挙げられる。「カルテット」「バレット」「エイリアンシンドローム」等、セガにかういふのが多い。あと洋モノで「ガントレット」とか。
妄想力をより強めて来たのはナムコで、「バラデューク」でプレイヤーキャラが実はナウシカ似の女性だつたといふエンディングで話題を作り、「イシターの復活」で「前作の囚れのヒロインが自分を救つた騎士を尻に敷く」といふ倒錯した世界を見せ、そして「ワンダーモモ」で越えてはいけない線を軽々と越えた。
また、ジャレコも「モモコ120%」といふ当時としては常軌を逸したゲームを出してゐる。
これら作品によつて、作る方も遊ぶ方も少しづつ「恥かしい」といふ気分を薄れさせていつた。言ひ方を変へると、照れくささが抜けて、状況に馴らされつつあつた。これは別にアーケードゲームに限つた話でなく、世間全体のヲタ的な分野に対する視線の変化にも同調するものだつたらう。

そして「フェリオス」へ

ここまで長々と語れば、「フェリオス」がどういふ気分の中に産み落とされたかを今更語る必要もないだらう。簡単に言へば「あのナムコがまたやつた」である。既に「ワンダーモモ」を目にし、「ベラボーマン」でアニメ声優を(当時としては)ふんだんに起用する等、ヲタ方面においてある意味突き抜けてしまつたメーカーである。「家庭用ならともかく、アーケードでここまでやるか」といふのが当時の認識であり、そのあまりの衒いのなさに清々しいものすら感じられたものである。
衆人環視で「ワンダーモモ」を遊ぶのは恥かしくても、ここまでやられたら恥かしがつてるのが馬鹿みたいだと、そんな一種の開き直りすら感じられるものだつた。そして、脱衣麻雀の専売特許だつたアニメ的キャラ表現を「我が陣営」のものとしたことで両者の間の線が曖昧になり、ジャレコが「スーチーパイ」を出した頃にはそんなものは無くなつてしまひ、脱衣麻雀からも生々しさが消え、ヲタの妄想的なものが支配的となり、従来の生々しいものは実写のLD麻雀方面へ進化していつた様だ。
やがて'90年代を迎へ、シューティング、アクション、格闘とジャンルを問はずに女性キャラが我物顔で暴れる頃、テレビでは「セーラームーン」が月に代つてお仕置してゐたのである。

で、今は

既にヲタを分け隔てる線などあつてなきがごとし。「エグゼリカ」が「ピンクスイーツ」がなんぼのもんかと。つか、どつちも普通にそこそこ面白いシューティングですね。以上。
つかつか、「『エグゼリカ』がまるで脱衣麻雀」といふのが如何にも現代的かなあ。それは「『フェリオス』がまるで脱衣麻雀」といふのとは決定的に意味が違ふ。

以上、アーケード中心史観かつ抑圧される男ヲタ視点で書いてみた

要は、「公共の場所で露骨なエロ目的以外の女キャラを出す/使ふなんて恥かしい」といふ心理がなし崩しに消え去り、皆慣れて恥かしがらなくなつたよ」といふだけのことを長々と書きすぎた。男にとつてエロ目的としての女性キャラは「現実的」でマッチョな欲望の対象であり、さうでない女性主人公は「妄想的」かつキモヲタ的な何かなのだと、極めて乱暴に大別すればさういふことになる。
公共の場所でない家庭用とかPC用ゲームでは、その種の「恥かしい」ゲームがもつと早くから出てゐた。ファミコンに限つても「レイラ」「マドゥーラの翼」などや「バラデューク」の丸パクリ設定の「メトロイド」、そして「エグゼリカ」なんて目ぢやないロボ娘シューティングの代表として「ガーディック外伝」等々。家庭用として生れた「ワルキューレ」がその後アーケードを巻込んで与へた影響の大きさも看過できない。

あとどうしても言ひたいこと

これらの背景や作品群を踏へると、「フェリオス」のモチーフが「囚われの姫」であることにどれほどの意味があるのだらう、と思はざるを得ない。「フェリオス」がさうだつたのは「たまたま」であり、当時のゲームにおいてさへ「囚われの姫を救ひに行く」なんてテーマは黴の生へた古くさいものでしかなかつた。同じ頃、うちのファミコンではとつくに戦闘機に変形するロボ娘がグロい生物相手にバリバリとレーザーを撃込んでゐたのであり、その姿にワシは萌えてゐたのだ。こんな'80年代のゲーマーは最早想像上の生物らしい。さうかもな。
つか、当時のヲタの妄想力をなめんなといふか。

  • 2006年06月14日 nisemono_san
  • 2006年06月14日 brainparasite ゲーム, 歴史 どこを切り取るかで歴史観って創造できるのかもね。それがSTGであっても。
  • 2006年06月14日 eiji8pou ロボ娘
  • 2006年06月13日 RanTairyu
  • 2006年06月13日 tknsn 8_STG, g_歴史, ゲーム
  • 2006年06月13日 shimaken-op 言われないと気づけない、というヌルゲーマー(=俺)でしたよ…さすが…。
  • 2006年06月13日 DocSeri 遊戯 この頃のゲーム業界を碌に知らんのだよな。私がゲームに手を出したのは実質的に1995年以降の事だし。
  • 2006年06月13日 firestorm STG, 業務用 こっそりめも。すいませんすいません(平身低頭//そして「戦闘機に変形するロボ娘がグロい生物相手にバリバリとレーザーを撃込んでゐた」の下りにときめきました。うわあんおいらだめなこ←