大和但馬屋日記

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人が変らなければ言葉も変らない

基本的に自然言語は誤用によって成り立っているのだ

んなことはない。何故さういへるか。

ブログロについて。あるいは道具が社会に与える影響について。 より正確には、ブログロを社会変革のための道具だと本気で考えている人が まだ少なからずいる (というか最近になってブログロという言葉が広まったためにむしろ増えだした) ことについて。
(略)

  • ルネッサンス期に活版印刷が発明され、書籍が普及したことによって、 人は権力に縛られず、自分自身で物事を考えることができるようになったか: なっていない。
  • 20世紀末期にインターネットが発明され、ブログロが普及したことによって、 人は権力に縛られず、自分自身で物事を考えることができるようになったか: なっていない。

結論: なんない。

同じ日に示されてゐるこちらの内容に全く共感するからだ。
その通り、道具によつて人間が大きく変るかといふと、まづ変りはしない。生活水準や社会制度が大きく変ることはあつても、人間はさうさう変らない。言語もまた同様。誤用や意味のゆらぎによつて多少の変化はあるにしても、言語の根幹はさう滅多やたらと変るものではない。千年前の言語と現代の言語で文法構造が根本的に変つたり基礎語彙が全く別のものになつたりもしない。「人間」とはヒトといふ生物と言語との両方で成立つてゐるのだから、人間が変らないのと同程度に言語も変りはしないのだ。過去数百年の間に西欧諸国以外の国々は多かれ少なかれ社会構造や言語の大転換を一度は経験してゐるであらうし、その淘汰圧に負けて滅びたものも少なくはないが、さうした「別の何かに塗り変へられた」ものを除いて、人間や言語が大きく変つたといふ話はたぶんどこにもない。人の生活や社会制度がどれほど変つても、である。
なぜ変らないかといふと、言語が基本的に誤用で成立つてゐるからではなく、たかが誤用程度でどうにかなつたりはしない強靭さと柔軟性を併せ持つてゐるからなのだ。