大和但馬屋日記

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言葉は疲労するか

id:funaki_naotoさん経由。
「言葉が疲労する」といふ現時点で一般的とは言へない言ひ回しを予め用意しておいてそれを否定する構成が気になるが、論旨には賛成。

言語といふものは、自然に生まれたものであるが、生きものであるかぎり、あるルールに従つてゐるのである。生きものだから変化するのではなく、生きものだから正確に運動するのである。それを個人の勝手で使つておいて、言葉は変化するとうそぶくのは、本末が転倒してゐる話である。

「言葉は生きものである」といふ譬喩を好んで用ゐる人にはこの部分について一度考へてみていただきたいと思ふ。この私自身はこの譬喩をそもそも認めたくないので引用の仕方としては狡いのだけれど。
それよりも私の心に留まつたのは下記に引用する部分である。

そしてその前に言葉は部品であらうか。
 部品であるとすれば、伝達のための部品であるとでも言ふのか。確かに自分の意志を他者に伝へる部品であると言へなくもない。「暑さ」や「痛さ」を人に伝へるためには有効な部品であらう。しかし、果してそれが言葉の第一義であらうか。暑さや寒さを人に伝へるためだけに人は「暑い」や「痛い」といふ言葉を発してゐるだらうか。
 試みに、自分の生活を昨日一日振り返つてみるだけで十分である。「暑い」と言つたときに、果してその言葉は誰に伝へたくて言つた言葉であつたか。誰でもない、あなた自身のために言つたのではなかつたか。「暑い」と言つて、納得するのはあなた自身であるはずである。さう、言葉は伝達のためにあるよりも前に、自分の気持を制御したり整理したりするためにあるのである。

「部品」を「道具」と読み替えたい。今、私は「言葉はなんであるか」といふことについて日々考へを巡らしてゐる。それは「言葉は道具である」といふよくある定義に疑ひを持つたところから始まつてゐる(生きものであることを否定するのはこれに比べればまだ容易い)。一方で、否定のための否定であつてはならないと自戒してゐるために、なかなか考へがまとまらない。
「『何某するためにある』と言へるものはすべて道具である」とまでメタ化して言つてしまへるのであれば、それはそれでも構はない。しかし私はさうした結果、「道具」といふ言葉の持つ意味に「言葉」が縛られることを許したくないのだ。言葉にはどうしてもさういふ効果があるからまことに始末に負へない。
そもそも、言葉といふものを「言葉」以外の別の言葉で言ひ表さうとするのが間違ひなのではないか、と今の私は思つてゐる。それはちつぽけな自分のプライドなんかを守りたいからではなくて、怖いからだ。「○○は××である」といふ譬喩が罷り通ることによつて判断を曇らせることが、人には(もちろん自分にも)あまりに多い。それは時として恐ろしいことだと思ふ。