大和但馬屋日記

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本質

上記の様な事を書いて思つたことが一つ。「Aは本質的にBだ」とか「Aの本質はBなところにある」とか、かういふ言ひ回しはよくあるしオレも好んで用ゐるが、これは哲学における「本質」といふ言葉とは全く関係なく、言つてゐる当人が対象Aのどこを見てゐるかを映し出してゐるにすぎないのではないだらうか。この辺、哲学にはさつぱり疎いので見当違ひなことを言つてゐるかもしれないが。
「ボタンを押せば反応が返つて云云」といふのは「カードゲームで手札を切る」とか「サイコロを振つて出目を見る」「碁石を盤に打つ」といふのと同レベルであつて、ゲームの進行に必要な手続きでしかない。サッカーにおいて球を蹴る行為は本質だが、サッカーといふ競技に人気が集まるのは球を蹴るのが楽しいからといふレベルだけの話ではないだらうし、囲碁は石を打つこと自体が楽しいなどと言ふ人はゐないのではないか。
辞書的な意味でのテレビゲームの本質は、テレビ画面上で展開すること以上のものはないと思ふ。テレビゲームの楽しさを、ボタンを押すと光つて音が出る類の幼児用知育玩具の楽しさと同レベルに押し込めるのには、異を唱へたい。
もちろん、テレビゲームが高尚だと言ひたいわけではない。ただ、どんなゲームであれ楽しみ方のレベルにもいろいろあるにも関らず、ある構成要素の一つだけを取り上げて「本質」と称するのは恣意的にすぎるだらう、といふこと。