大和但馬屋日記

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漫画原稿の流通について

これから書くことはまんだらけの是否云云を問ふものではない。もしそれに抵触する様なことを書いた場合は不注意の賜物であり、その様にご指摘頂ければ幸ひである。
昨日付のコメント欄でのにゃぎ〜さんとのやりとりにおいて、「漫画の原稿が売買されること自体が異常だと思ひます。ていふか、異常と思はれる世の中になつて欲しいです。」と書いた。これはつまり、現状はさう見做されてゐないといふことであり、それ故の願望を言ひ表はしてゐる。
これは、「盗品である可能性が高いから」といふ理由とは直接関係がない。漫画の原稿といふものが、他の表現物に比べて如何に不可思議なモノであるかを指摘したくてあの様に書いたものである。
まづ、漫画原稿が誰のものかといふ点。多くの場合、著作権作家個人に帰属する。それで問題がなければ良いはずなのだが、現実にはさうなつてゐない。世の漫画の大半は雑誌の出版のために製作されてゐて、企画段階から雑誌編集者の意向が多少なりとも反映される(もちろんさうでない作品も多数ある)。また、出版社には著作権とは別の版権といふものが発生し、その他商標権とかなんとか、一つの作品に対して様々な権利が複雑に絡んでくる可能性が常にある。これは別に漫画に限らず、小説映画アニメゲーム等、およそ流通に乗る創作物についてまはる問題だ。
しかしこれらの中で、漫画は極めて中途半端な位置付けにあると思はないだらうか。ゲームや映像作品の様に、一から十までを個人で製作するのがほぼ不可能なものは、それぞれの所有権についての線引きがある程度明確に決まつてゐる*1小説その他文芸作品は、より個人性が高いために、責任の所在もはつきりさせ易い。そして漫画はその中間にある。問題は、出版社の視点で実際の工程を考へると映像作品寄りの手数がかかるのに、作家や世間一般の持つ作品そのものへの意識は小説寄りの個人性を認めてしまふといつた様な認識のずれだ。
ここで工程といふ言葉を持ち出したことに留意して頂きたい。漫画の原稿とは、出版の工程の一部分を構成する要素でしかないのだ。別にエキセントリックなことを言つてゐるつもりはない。同人誌を発行した経験のある人ならば、誰しも一度は実感するだらう。出版目的に作られた原稿は、あくまで版下の一部であつて作品そのものではない。映像作品で言へば編集して音を入れる前のラッシュ、小説ならば編集者にしか判読できないミミズののたくつた原稿用紙の様なものだ*2。もちろん、いづれもぞんざいに扱つてよいものではない。むしろ鄭重に扱ふべきものではあるが、しかし作品そのものではない。本来ならば、それ自体に価値は発生しないものだ。それを作つた本人以外にとつては。
しかし実際のところ、漫画の原稿は完成までに大変な手間がかかる上に作家の個性が大きく反映されるので、それ単体で作品と見倣され易い。自分は、この認識を改める必要があると思ふ。その上で、漫画家出版社が原稿をどう取り扱ひ誰が管理するかを規定し直す必要があるだらう。
例へば、音楽ならば版元がマスター音源を所有してゐるが、その使用にあたつてはJASRACへの届け出が必須であるといふ様な、各々の権利をしつかり定めた基準が必要といふことだ*3。漫画で言ふなら、手描き原稿は作家が所有し、製版のための最終的なソースは出版社が別に所有してゐれば問題は小さくなるはずなのだ。もちろん今までもさうされてゐた可能性はあるし保管スペースの問題で物理的に不可能であるなどの事情もあるのだらうが、今はさういふ時代でもあるまい。
要は、出版までの過程の中で原稿を一度電子化してしまひ、有償で共有される資産として扱ひ、以後のすべての工程はそのデータを使ふ。一切生原稿を持ち出す必要がない様にし、心ない(あるいは単に経営事情の危ふい)出版社に生原稿を貸し出さなくても済む仕組みをつくる。かうすることで、生原稿は骨董品と同程度の意味合ひでしか市場に流れない様にする。長長と書いたが、言ひたかつたのはかういふことだ。
今回の問題の発端は「工程上必要とされたために市場に流すつもりで手放したのでないものが、いつの間にか流れてしまつた」ことにあるわけで、そのやうな状況が有り得ない状況になつてほしい、否なるべきだといふのが、件の主張の意図である。
既に原稿そのものをパソコン上で一から描ける時代になつてゐる。全ての作家がさうすべきだとは思はないが、全ての作家が負ふべきリスクを一様に最小化できる手段はあるはずだ。
以上。ああしんど(笑

*1:幻想である可能性もある

*2:プログラムで言へばmakeする直前のソースファイル群といふことになりますか?

*3:JASRAC自体の是非はここでは問はない